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速水総裁退任記者会見要旨(3月19日)
2003年3月20日
日本銀行
―平成15年3月19日(水)
午後3時から約80分
【総裁】
この席で皆さんとお話をするのも、今日が最後なので、この5年間の感想を初めに私のほうからお話しさせて頂いて、その後ご質問なり、何なりと伺いたいと思う。
ちょうど5年前の98年ですが、初めてこの席で皆さんにお話をした時のことを、昨日のことのように思い出す。
当時、「独立性」と「透明性」という二本の柱を新しい日銀法の下で与えられて、新しい一歩を踏み出そうとしていた日本銀行は、同時に、経済環境の面でも、また組織的な面でも、激動の真っ只中にあったと思う。
その前の年の97年というのは、海外ではアジア経済危機、国内でも戦後初の大規模な金融破綻が起こり、景気や金融システム問題の悪化がはっきりし始めたときであった。一方で、金利を引き下げる余地は、既に殆ど残っていなかったし、また、日本銀行の組織をみても、業務運営への信頼というものが大きく揺らいだときであったように思う。
そういうときに、前総裁が任期途中で辞められるということで、総裁職が大変な仕事であろうということは、私も感じていたけれども、その大変大事な仕事を、誰かがやらなければならないということで、私のほうへ話がきたときに、考えた末、これは神様の召し(calling)と捉えてお受けして、誠心誠意尽くすしかないというふうに考えた。
新しい日本銀行法の下での業務とか組織運営については、就任の際に、「中央銀行は一国の経済の良心(conscience)」であり、「中央銀行は、国益ということを常に考えて、通貨の発行、通貨価値の安定、金融システムの安定というものを通じて国民の豊かさや安心、そして経済の持続的な安定成長の実現を目指していく」と申し上げた。行内の一人ひとりがそういった任務に誇りを持って、国民のために働く意識を持ち続けることが、中央銀行に対する信頼の構築につながっていくというふうに申し上げたつもりである。
私は、“integrity”——日本語で表現するのは難しいのだが、高潔さとか、誠実さとか、正直であること——という言葉が好きなのだが、その誠実さが、十分に信頼されるという意味を併せ持つ言葉だと思う。欧州ではよく中央銀行(central bank)の第一の任務は「通貨の番人(“guardian of the integrity of money”)」——円の場合は、“guardian of the integrity of yen”ということになると思われるが——であると言われている。
私の就任とほぼ同時に施行された新日銀法は、先進国の中央銀行法として誠にふさわしい内容を備えたものであった。とりわけ皆さんご承知と思うが、第3条に書かれている通貨および金融の調節における「自主性の尊重(independence)」とその意思決定に関する「透明性の確保」というものは、ひとときも私の心から離れることはなかった。それと同時に、第4条に書かれている、政府の経済政策の基本方針との整合性についても、十分注意を払ってやってきたつもりである。
「自主性の尊重」のほうは、新法の下で金融政策決定会合というものが開かれるようになり、このことについてはこれまでも、お話をしているので省略させて頂き、今日は主として「透明性の確保」ということについて、説明責任(アカウンタビリティ)の話をさせて頂きたいと思う。新法の下で、私の国会での答弁は5年間で、数えてもらったら、388回という数字が出ている。皆さんの前で記者会見を行ったのも、今日で101回目になる。私はこの1回1回について、誠実に説明に努めたつもりである。
組織・業務の運営についてであるが、組織の面でも、私は、日本銀行の業務運営への信頼を回復することが、日本銀行自身の先程のintegrityを取り戻すことになると考え、そのための取り組みを、就任後直ちに進めてきた。具体的には、服務規律の徹底、コンプライアンス委員会の設置などを、矢継ぎ早に行ってきた。 並行して、支店の統廃合とか組織のスリム化、保有資産の売却といったようなことで経営の効率化も進めてきたつもりである。
もとより、中央銀行の根幹的な仕事である、銀行券の発行と円滑な流通を維持していくということについては、紙幣の改刷なども含めて、十分配慮してきたつもりである。
また、金融市場のグローバル化が進む中で、他国に見劣りのしないインフラを整備する必要もあった。この点で、私が就任後最初に指示したことは、FB(政府短期証券)の公募入札の実現であった。その頃FBはまだ日銀引き受けであったのである。それでは市場が少しも動いていかないということで、FBの公募入札が実現——1年近くかかったが——し、非常に大きな変革の第一歩であったと思っている。このほかに、円を内外で使い勝手の良い通貨、風格のある“integrity of money”というふうにしていくために、作業の一環として、円の国際化をも展望した金融市場の整備・育成、そしてまた決済システムのRTGS化といったようなことも、積極的に進めてきた。
もっとも、中長期の目標として常に私の念頭にあった間接金融に代わる資金仲介ルートとしての直接金融市場の育成というものについては、経済主体のリスクテイク能力の毀損といったようなこともあって、なお十分な進展をみているとは言えない。この点は、これからの課題であり、わが国金融市場が今後この方向で改革されていくことが望まれるところである。
次に、日本経済の再生に向けた取り組みについて少し話をさせて頂きたいと思う。最初に経済・金融システム問題であるが、日本経済や金融システムをどうやって立て直していけばよいのかという問題は、私の頭からひとときも離れることはなかった。
日本経済は、既にかなり前から、成長経済から成熟経済へと大きな転換を必要とする時期にさしかかっていたように思う。しかし、まさにそうした時期に生じたバブルの発生とその崩壊が、経済の構造改革を様々な面で遅らせてしまったことは否めない。
バブル期の景気の過熱や資産価格の上昇により、本来であれば市場からの退出を迫られていたはずの企業が存続する、採算に合うはずのない投資を拡大させるといったようなことが行われていたわけである。金融面でも、直接金融への健全なシフトとか、資産流動化など、新しいファイナンス形態の発達はあまり進まないで、却って地価の高騰が銀行貸出の膨張を招くといったような結果になった。さらに、その後の株価の下落は、証券不祥事とも相まって、人々のリスク資産への警戒感を強めていったように思う。
経済の構造転換というのは、「新しい分野を切り拓く」というリスクテイクの積み重ねでなければならないと思う。しかし、バブルの結果として生じた不良債権あるいは企業サイドの過剰債務は、経済主体がそうしたリスクテイクを行う力を弱めてしまう結果となっていたように思う。
世界経済の面でも、冷戦の終結など非常に大きな環境変化が生じて、グローバリゼーションが進んでいって、戦後の日本経済の成長を支えた多くの産業分野がバブル崩壊の中で苦闘している間に、エマージング諸国が急速にキャッチアップするというようなことが起こっていったわけである。
次に、金融緩和のことについて触れたいと思うが、日本経済が複雑かつ深刻な問題を抱える中で、私は、中央銀行総裁としての立場から、どうすれば日本のために最大限の貢献ができるのかということを日々考えて、全力を尽くしてきたつもりである。
我々の金融政策は、過去に経験したことのない様々な困難に直面した。 まず、金利引き下げという手段を使い切った後に、金融政策が経済を刺激できるルートがあるのかどうかといったこと自体、明確な答えはないし、仮にこうしたルートがあり得たとしても、これを通じた効果は、かなり不確実性が高いことが予想された。
さらに、深刻な不良債権問題などによって、金融機関の信用仲介機能は後退したと言わざるを得ない。
このような状況の下で、我々は、様々な選択肢について、その想定される効果と、リスクや副作用とを、前例のない中で一つ一つ比較検討して、日本経済のために採り得る最善の策を、懸命に模索してきた。
この結果として踏み切ったのが、量的緩和などの、未知のルートも積極的に模索するという、未踏の金融緩和であった。
金融政策は、その効果や副作用が出尽くすまでに、長いタイムラグがあるものである。この5年間、我々が行ってきた金融政策のいわば「海図なき航海」への評価というものは、後世に委ねる他はないと思う。
ただ、歴史上、経済がスパイラル的に悪化した局面では、ほぼ常に、大規模な流動性の逼迫や信用収縮が起こっている。これに対して、過去5年間、日本の金融システムへの厳しい見方が続いて、様々なリスクが現実化する中でも、これらが金融面での急激な収縮に結びつくルートは遮断されてきた。我々の金融緩和は、デフレ・スパイラルやいわゆる「景気の底割れ」といったようなことを阻止する上では、重要な役割を果たし得たと考えている。
次に、金融システム問題への対応であるが、不良債権をはじめとする金融システムの問題について、私は就任当初から、できるだけ率直な発言を心掛けるとともに、中央銀行としてできることを、積極的に行ってきたつもりである。
私は、経済再生のためには、金融システムの厳しい現実から目を背けることなく、どうやってこの問題を克服していくのか、国民的な議論を進める必要があると考えた。
経済のグローバル化が進む中で、日本だけが依然として「護送船団」の時代に安住するというようなことは、もはやできない。私は、日本の金融システムに対して海外や市場が厳しい目を向ける中で、日本が自らこの問題に取り組む姿勢を示さなければ、日本の当事者能力自体への国際的な信認を得られないだろうと思った。
邦銀の自己資本や不良債権の開示などに関する私の発言については、当初、さまざまな反発もあった。しかし、私が示したような考え方は、次第に世の中にも理解されていったのではないかと思っている。
また、我々が現実に行ってきたアクション——例えば、「不良債権問題の基本的考え方」の公表とか、それに沿った銀行保有株式の日銀の買入れ——も大きな契機となって、不良債権問題の解決に向けて、現実に様々な取り組みが行われていることは、着実な前進と考えている。
次に、構造改革とデフレの克服の問題である。私は、規制改革や税制改革をはじめとする経済の構造改革の重要性を、経済同友会の代表幹事をしている頃——当時は細川内閣で93年頃だったが——から、一貫して強く訴え続けてきた。
金融政策は、需要を直接作り出すことはできないし、構造政策を肩代わりすることもできない。しかし、日本の未来を切り拓くためには、構造改革によって経済活動を活性化させ、需要を引き出すことや、不良債権問題を克服することが、どうしても必要だと、私は考えた。さらに、これらは、金融政策の波及経路の回復を通じて、我々の行っている潤沢な資金供給を、経済再生のため最大限役立たせることにもつながるものだった。
そうした中で、経済財政諮問会議などでは、総理がよく言われる「改革なくして成長なし」を踏まえて、更に「成長なくしてデフレ克服なし」と言わせて頂いてきた。
構造改革を遅らせると、日本の産業が国際的にみて競争力を失っていくこととなるので、やはり、構造改革の取り組みは、猶予を許すものではない、と思う。
この間、「構造改革を進めながら、物価も上げられないか」とか、さらには「中央銀行はインフレを起こせるはずだ」といった議論もあった。
私は、中央銀行が信認を失えば、いずれ、ほぼ確実に制御不能のインフレが起こると思っている。しかし、デフレ克服とは、そうしたインフレを起こすことではない。政策当局がいったん失った信認を、後で都合よく取り戻すといったことができないことは、貴重な歴史の教訓である。
さらに、経済のグローバル化が進む中にあっては、今後、経済の繁栄を享受しようとするいかなる国も、海外諸国や自由な市場と共存する必要があるということは、十分念頭におく必要があると思う。
統制経済を敷けば、物価の下落は止まるだろう。しかし、日本経済の活力そのものを失わせてしまったのでは、元も子もない。
こうした中で、日本再生のシナリオとして、私が見出し得た答は一つだ。すなわち、日本銀行は思い切った金融緩和を続ける、その一方で、規制改革や税制改革などを通じて民間需要を引き出し、経済活動を活性化させる。その結果として物価のマイナス基調からの脱却も実現する、という道である。
先進国が先進国であり続けていくには、環境変化に応じて産業構造の転換を柔軟に行い、その時々の経済をリードするいわゆる高付加価値産業を育てていくことが必要だと思う。私は、日本にはその力が、必ずあるはずだと考える。
おわりに、日本経済の再生が道半ばのまま、本日の退任を迎えるに至ったことは、私としても大変残念である。しかし私は、日本経済の将来について、全く悲観していない。
わが国の個人金融資産は約1400兆円もあり、国全体としても、世界最大の対外債権超過国であり続けている。高い技術力に支えられた製造業は、国際的にも強い競争力を維持しており、大きな経常収支の黒字が生み出され続けている。
さらに、この5年間、日本企業の収益体質はかなり改善している。金融システムのセーフティ・ネットや企業再生法制などの整備も進んだ。企業や銀行の大規模な再編も行われている。エマージング諸国の生産力を活用した新しいビジネスも成長している。日本経済の再生に向けたいくつかの「芽」は、着実に育ち始めていると思う。
経済再生への道は、これからも、決してなだらかではないと思う。しかし、日本経済はこれまで、開国や敗戦からの復興など、さまざまな試練を乗り越えてきた経験を持っている。もともとが気候温暖な島国だから、最初はのんびりしている所はあるかもしれない。しかし、一度目を覚ませば、その潜在力をたくましく発揮することは、これまでの歴史が示している。私は、日本経済が——これまでもそうであったように——いずれ現在の苦境をも乗り越えていくことを、固く信じている。
最後になったが、藤原副総裁と山口副総裁は、この5年間、本当に誠心誠意、私を補佐してくれた。この場を借りて、心からお礼を言いたいと思う。
皆さん、5年間お世話になった。どうもありがとう。
【問】
激動の5年間であったと思うが、総裁が一番印象に残った出来事、思い出はどのようなことか。
【答】
2000年8月11日にゼロ金利解除をした。この前、図表をお配りしたと思うが、2000年には、ITバブルと言われるぐらい経済が伸びていた。生産もGDPも伸び、株価も上がっていく状況下で、本当はもう少し早くゼロ金利を解除して、金利機能というものを市場に取り戻したいと思っていたが、沖縄サミットの関係や倒産の発生などもあって、結局8月に実施した。
ゼロ金利を解除してから、暫くは株価も上がっていき、市場も——短期金融市場では、マネーブローカーの方々は本当にお気の毒で仕事がなくなり、市場も一方通行のようなかたちになっていたわけだが——活発になった。ゼロ金利の解除については、こうした状況を早く正常化したいという気持ちを強く持っていた。内外でも意見が分かれていたかもしれないが、金融の正常化ということを考えておられる方は、良くやったという感じであったと思う。
その後、米国では、12月になって、ITの在庫が過剰であることがわかって、各国の輸出も減り始め、正月早々にFRBは金利を引き下げた。その頃、ITバブルがはじける過程にあったのだと思う。この間も申し上げたと思うが、FRBのトップの人たちが、ITの在庫は見通しにくい、小さい製品が多いし、中古品か新品か見分けがつかない、ということを1~2月頃に言っておられたことを覚えている。米国が金利を下げ、主要国もそれにならって金利を下げていった。
その後、ITバブルの崩壊の影響が尾を引いて、日本でも諸指標があまり良くなくなった。日本では2月に一度金利を0.15%まで下げて、3月には、もうこれ以上金利を下げられないということで、量的緩和という新しい枠組みを編み出して、日銀の当座預金を目標にして金融の緩和を行うことを始めた。その後、国債の買入れを増額しながら、当座預金の目標額を増やしていって、現在の残高は21~22兆円である。
一昨日、昨日と、短期金融市場は非常に落ち着いているが、万一、株価の下落が短期金融市場に影響を与えるようなことを回避するために、前もって1兆円ずつ2回積み増して、今22兆円超の残高になっている。このように情勢の変化に応じて、私どもは動いており、ゼロ金利を解除し、半年程度経ってから量的緩和をしたのも、世界経済の全体がそういう方向で動いていたから、私どももなるべく早めに手を打ってあのようになったのだと思う。ゼロ金利解除の時は、これで正常化が始まり、金融市場、直接金融というものをもっと考えていこうということを行内でも指示をしたりして、勉強が始まったところであった。そういう意味では、あの時は残念であったし、量的緩和という世界的にも初めての試みをやるということについて、何となく先行きに対する不安感があったことは今でも良く覚えている。私にとっては、あの時期が、この5年間の中では今でも一番忘れられないことであったと思う。
その翌年の9月にテロがあったが、これもまた全く予想もつかないことが起こったわけで、翌日の朝、たしか2兆円買いオペをやり、ドルが急落する中でそれを買い支えることをやったことを覚えている。あの時は、こういうことが世の中で起こるんだということを教えられた。東西の冷戦がなくなって、大きな戦争はなくなったと私は思っていたが、ああいうかたちで新しい戦争が起こってきた。
そして今度の場合などは、戦争に対して西側でも意見が分かれてくるような状況が起きている。東西の冷戦がなくなった後、ハンティントンという人が「文明の衝突」という本を書いて良く売れたが——そこでは宗教や民族によって世界が8つくらいのブロックに分けられ、日本だけは独立した1ブロックになっていたが——、そうしたことが起こり始めたのかなということを、ここ1週間ほど考えさせられるような情勢になってきたと思う。これから先、どう展開していくか先が読めない中、こういう時に退くことは大変申し訳ないが、後任者がしっかりしているから上手くやってくれるであろうと思っている。
【問】
金融システムについて話を伺いたい。一般の国民は、特に銀行に対して不満を持っていると思う。不安を募らせていると言っても良い。金融村の村長とも言える日本銀行に対しても、端的に言って不満や不安を持っていると思う。先程、総裁は金融機関の仲介機能が後退した、金融機関を巡る問題についても国民的議論がなかなか進まなかったとおっしゃった。この5年間を振り返って、なぜ金融システムの強化ができなかったのか、何に問題があったのか、これからどう進むべきなのか、今のお考えを伺いたい。
【答】
冷戦が終了し、グローバリゼーションが始まろうという90年代初期に、米英を始めとする各国は、構造改革を進めて不良債権を処理した。日本は、その時にバブルが崩壊し、景気を梃入れするために公共投資を次々と出し、日本銀行も金利を下げて、95年には——私が総裁になったときもそうだが——公定歩合は0.5%に下がっていた。当面の景気対策が行われる中で、構造改革が立ち遅れたことは大きかったと思う。
日本では、今までずっと銀行に対して護送船団方式——政府が弱いものに合わせて、手取り足取り指導し、皆がそれに合わせるように進んでいく——を採り、そうしたことを背景に、20数行が海外に店を持って、日本からの進出企業などを相手に活発に稼いでいた。90年代は、銀行も何とか稼ぎ、株価もかなりの高さであったが、グローバリゼーションの結果として本当の自由競争になれば、そういうことは続けていけないということがわかり始めたのは97~98年頃だったと思う。
今でも私は良く覚えているが、総裁になって暫くして、昔から親しかったFRB元議長のボルカーさんが来られて、「日本は大銀行が随分多く海外に店を出していて、マネーセンターバンクが20数行あるが、どうするつもりだ」と言われた。私は、どれくらいが適当だと思うかと聞いたら、それは4~5行だろうと彼は言ったが、それを聞いて、どうやって今の20数行が減少していくのだろうかと思った。
彼らは、その頃から、邦銀は不良債権が多く、自己資本は多くないということを知っていた。私も、その頃から、大銀行をどうやって統合していくのかということを心配し、自己資本の中に、コアキャピタル——いつでも使える資本金——が少ないことを心配していた。それゆえ、日本の大銀行は将来どうなるのか不安だということをあの頃から言い出した。それがここへ来て、私が総裁をしている5年の間に、大銀行は4~5行になった。他の人はあまり言っていなかったが、結果としてボルカーさんの言った通りになったわけで、彼は偉いなと思った。
不良債権のほうはなかなか処理が進まず、今までに90~100兆円を償却したが、また新しいものが次々と出てくる。現状では、日本の金融システムは、不良債権問題を主な背景として、引き続き厳しい状況にあると言わざるを得ない。ただ、ここにきて主要行は、統合が一応一段落して、それぞれ新しい体制で進み始めたところである。主要行が、自助努力で増資を——自ら方法を決め、自らの判断で——3月いっぱいにやろうというわけで、現在の状況では直ちにこれが金融システムの安定につながっていくのか読めないが、とにかくそういうことをやっていかなければならないという意識を持って動き始めたということは一つの進歩だと思う。大事なことは、金融機関が市場からの信認を回復していくためには、収益力を改善しなければならないということだと思う。そのために、自主的な経営努力を——資本の拡充も含めて——積み上げていかなければならないと思う。日本銀行としても、金融機関の自助努力ができるだけ早期に実を結んでいくことを期待している。いずれにせよ、株価の状況やその変化が金融機関の経営に対して与える影響については、今後とも細心の注意を払っていきたいと思う。
【問】
先日、福井次期総裁が衆議院の参考人質疑でいろいろな金融政策手段等についての考えを述べられたが、様々な点で速水総裁との考え方の違いがでてきたように思う。例えば次期総裁は、株の買取り枠について前向きな姿勢を示され、インフレ目標策についても「無謀な賭け」と一蹴されることはなく、また、ETF購入についても検討の含みを残された。こういった福井次期総裁のお考えをお聞きになって速水総裁はどうお考えか。
【答】
どうお答えになったか私は聞いていない。皆さんは聞かれたわけだが、どう受け止められたかは新聞によって違うようだ。彼は、そういうところは私と違って、話し方が慎重である。だから、どちらにもとれるような表現をしたのかもしれない。その辺は私よりもずっと大人だと思う。そんなに考えが違っているとは思わない。
【問】
そうすると、例えば今後日銀が株の買取り枠の上限を拡大する、また長期国債の買入れをどんどん増やしていく、そうしたスタンスをとる可能性はあるのか。
【答】
これから株価がどこまで落ちていくのか、その辺はわからないが、私どもが昨年10月に買取りを発表した経緯をお話しすると、夏休みに宿題を出して、それをプルーデンスのトップの人達が夏休みを捨ててまで議論して、案を作ってきてくれたわけである。かなり細かいところまで詰めて、対策を発表できたわけだが、10月11日に発表した時は、皆初めはびっくりしたかもしれない。しかしながら、あれは株価対策ではない。株の保有額よりも、銀行の自己資本の中でTier Iのほうが少ない銀行が数行あって、それだけ足しても6兆円ぐらいの、Tier Iを上回る株の保有があった。これはやはり危ないな、ということは誰が考えてもわかるわけである。その時既に時価評価で、株価が下がれば自己資本を食いつぶしていく。そうなったらどういうことになるのかということはわかっていたわけであるから、そういうことを考えて、9月末で6兆円ぐらいあるうち、2兆円を日本銀行で買うことにした。銀行がこれ以上持っていたら心配であるので、市場へ放出するよりも日本銀行が買ったほうが良いだろう、と判断して金額を決めたわけである。取得機構の買入れ上限額も2兆円、金融機関による市場売却の可能性からいっても2兆円ぐらいが良いところではないかと。日本銀行の財務の健全性については、この前も申し上げたが、やはり銀行券の見合いになる資産が劣下してくる、あるいは銀行券を出している中央銀行の資本・準備金が減少していくといったようなことが起こるとこれは大変なことになる。その辺を考えるとやはり、2兆円ぐらいがちょうど良いところではないかと私は思う。これを拡大するということについては、今まだ半分買ったか買わないかというところであるから、この時期になぜ増やさなければならないのか、とむしろお聞きしたいぐらいだ。
【問】
総裁は国益を常に考えてやってきたとおっしゃっていたが、明日から新体制になり、福井新総裁に速水総裁がされたアドバイスで一番重要と思われることは何か。
また、副総裁になる岩田氏はインフレ・ターゲットを強く主張しており、0~2%と具体的な数字も国会でおっしゃっていたが、そういった方がボード・メンバーの中に入ってくることについてどのようにお考えか。
【答】
私は今日限りで終わりだから、今日の夜中の12時に総裁退任であるので、明日何が起こってもそれは福井総裁が決定されると思う。余計なことをいろいろ口出ししたりせずに、私は私なりにこれから新しい生活をしたいと思っている。もちろん、後の動きはよく見ていきたいと思うが、政策に口を出すようなことをするつもりは全くない。
私は来週で誕生日がきて78歳になる。やはり歳をとったなと我ながら思う。ただ、歳をとって老化するということは神様が与えた賜物だと言った神父さんがいるが、体が弱くなり、動くことがなかなか大変になってくると、歳をとっていくことと自分が闘っていくことは、やはり生きる目標の一つになってくるのではないかと思う。寂しかったり、いろいろなことがこれからも起こってくるだろう。それはそれとして、私は仕事のことは今晩の12時で終わりということにさせて頂くつもりである。
【問】
金融の正常化にはあと何年くらいかかるのか。あるいは、量的緩和政策はこのまま何年くらい続くのか。先程、ボルカー氏が、将来メガバンクが4、5行になると予想されたとお話されたが、速水総裁にも、ここであとどのくらいで日本経済が再生するのか、予想を伺いたい。
【答】
難しい。金融の正常化というのは、かなり進んできつつあると思うが、ちょうど、大銀行の統合がワンラウンドして、みんなそれぞれの立場で動き始めたというのが現状である。ここでまた、新しい競争が始まってしかるべきだと思う。やはり、あれやれ、これやれではなくて、上手く経営をやり、貸出を伸ばし、収益を増やしていったところが、勝つわけである。これからまさに決戦が始まる。
それは周りの人も皆そう思って銀行を見ているだろうし、銀行は、ここへきてやる気を出してきたなと皆見ているに違いないと思う。こういう状況の中で、貸出の増加対策とか、あるいはこれまでよく言われてきた信用仲介機能の発揮をしていかなくてはならないわけである。それをどういうかたちでやっていくのか。大銀行同士の競争というものは、大いにやって頂きたいと思う。海外とも、いろいろ、入ったり出たりがあるだろうから、そういうことも含めて、これから本格的な動きが出てくるのではないかと思う。
【問】
その構造改革も含む日本経済の再生は、あとどのくらいかかると、現時点で総裁はお考えか。
【答】
構造改革のほうは、方向は決まっていたが、これまでかなり先延ばしが多かった。政治情勢も絡んで、党の中でなかなか通らない、お役所の中で通らない、担当の大臣が諮問会議に出てきて反対される、といったようなこともあって、どうしても決めたことをすぐには実施していけないということが、これまでの状況であったように思う。
けれども、小泉首相の信念はまだ非常に強いものがおありだと思う。やっていかれるだろうと思うが、これは政治情勢がかなり大きく作用することではないかと思うので、先行きの見通しというのは難しいと思う。
ただ、私どもとしては、早くやらないといけない、「改革なくして成長なし」ということは、やはり間違っていないと思う。
【問】
新日銀法ができたときに比べ、日本銀行を巡るリスク——マーケット・リスクなど——は変わってきていると思う。もっとリスクをテイクするために、資本金1億円で十分なのか、日銀の資本増強は必要ないのか。
【答】
資本金はずっと昔から1億円である——株(出資証券)の保有者は変わっただろうが——。一方、準備金、引当金は、今、5兆1千億円ある。今のところ特に増やさなければならないということはないと思う。資本勘定が2兆4千億円、引当金勘定が2兆6千億円、そういうものを入れて5兆775億円。「資本金」が少ないのではないかと思われるなら、この数字をご覧になって頂ければ良いと思う。
私は今のところ増やす必要はないと思っている。むしろ、財務の健全化ということ、資産の質をあまり落としていかないということが大事だと思う。
【問】
先程、2000年8月のゼロ金利解除が非常に思い出深いと述べられたが、2001年3月前後、量的緩和を決断されたその前後、ちょうど3年目に差し掛かった胸突き八丁の頃だったかと思うが、いろいろな思いが総裁の胸の内をよぎられたのではないかと思う。アカウンタビリティーの観点からも、その当時の心境をお聞かせ頂きたい。
【答】
よく覚えていない。私はこの5年間、病気一つしていない。無欠勤だ。これは自分なりに良く頑張ったと思う。お医者さんも良かったのかも知れないが。やはり緊張感というものが非常にあったのだと思う。夜眠れないこともあったが、そういうものを乗り越えて、使命感のようなものが支えてくれたと思っている。
あの時に何があったか、ということはもう忘れてしまった。
【問】
こういうグローバルなマーケットの時代において、日銀にとってはマーケットとの対話というものが、非常に重要なポイントだと思う。その点から2点伺いたい。まず、最近の講演で、総裁は持論である円高の話にかなり言及されたが——先程の話でも使い勝手のある円についてこだわりを持っておられたが——、あの時の講演では、円安を容認したりとか、実体経済がむしろ円安方向にあることを認める必要があったと思う。そういう時に、持論の円高の話に言及するということは、まだ総裁でおられた時のマーケットとの対話の観点では、個人的に異論がある。そこはどうお考えか。もう一つは、一昨年のはじめに任期半ばにおいて辞意を表明され、結果として5年間の任期を全うされたことは大変なことだと思うが、あの当時、マーケットは総裁の辞意表明で混乱した。なぜあの時辞意を表明されたのか、また撤回したのか、良い機会なので、聞かせて頂きたい。
【答】
むしろ市場は今、円高に動いている。ドル安なのだから。
【問】
それは、むしろ総裁としては円高を容認する、または円高が望ましいということか。
【答】
望ましいかどうかはわからない。これを無理に円安に誘導することは必要ないと思っている。著しく円高になったら別であり、9月のテロの時もそうであったから、そういう時は介入せざるを得ないかもしれないが、そういうことでもない限り。
ちょうど私が5年前に就任した時と今の相場はほぼ同じ位である。ファンダメンタルズでみれば、先程も申し上げたが、日本のポテンシャルは強い。これだけ家計が金融資産を持っているところはないし、経常収支がずっと黒字で、GDPの3%前後の黒字が続いているし、対外債権超過額が1兆3000億ドル強、外貨準備額はむしろ増えている。そういうところで通貨というものは、やはりそんなに弱くはならない。世界の市場というものは、ご承知のように今、24時間開いていて、1日、1兆数千億ドルの取引がある。そういうところで多少介入しても、また元へ戻ってしまう。実体がそういうことであれば、その辺りのことは、皆様のほうがむしろ偏った考えをしておられるのではないか。為替の相場というものは、市場が決めるものである。
それから、辞めるとか辞めないとかいうことは、これは皆様のほうでお書きになって騒がれたわけで、私はそんなことは別にどうってことないですから。任期いっぱいやりますということはあの時から決めていたわけだし、内部の人はそのつもりで皆良くやってくれた。
【問】
そうすると、当時、森総理に辞意を表明されたとか、意思表示したという事実はないのか。
【答】
ないですね。それは、福田官房長官などは良くご存知である。
【問】
金融政策運営を司る上で、信仰はどのように総裁を支えたのか。下世話な言葉で言うと、イエス様の信仰は、金融政策の決定に役に立ったのか教えて頂きたい。また、今回退任するにあたり、私たちに送るお言葉を頂ければと思う。
【答】
私は、1945年、昭和20年からのクリスチャンである。家もそうであったし、もちろん母親もそうであった。クリスチャン・ホームで育ったということである。ただ、やはり戦争で兄が亡くなったり、父親も早く亡くなったり、いろいろな事があった。
私は先程少し申し上げたように、「土の器」のように本当に平凡な使い勝手のない男である。神様がやってみろとベルーフ(職業)を与えるということは、こういう弱いもの——「土の器」——だけれども、それを使ってみるということによって、神様の力を皆さんがわかるようになる、というようなことをパウロが言っている。パウロほどの強いものではないが、心境はそのようなものであったと思う。その後ずっと、国会に400回近く行ったり、海外に行ったり、いろいろなことがあった。明日何が起こるかわからないといったこともあったり。そういう時でも、私は3つのことをいつでも口ずさんでいる。これは、キリスト教に関係のない方は、「何言っているんだ」という話かもしれない。
極めて簡単に言わせて頂ければ、イザヤ書という中に、「怖れるな、私は汝とともにある」という言葉がある。「主、共にいます」ということ。これが一つであり、神様はいつでも私のそばに付いていてくれている。二つ目は、「主、我を愛す(Jesus loves me)」、これは、幼稚園の時に歌った歌だが、神様は私を愛してくれているということ。三つ目はやはり、「主、全てを知りたまう」、神様は、どんなことがあっても全てのことを知っており、全てを知った上で正しい判断を行い、正しい事をやっていれば、神様は守って下さるということ。そういう極めて単純な信仰を持って、事にあたって来たつもりである。
【問】
新しい日銀法の下で、政府とどのような関係を維持すれば良いのかについて聞きたい。この会見の席でも、私たちのほうから度々、「今回の政策決定にあたって、政府からの圧力はあったのか、なかったのか」という質問をしたかと思う。かつて総裁は、「圧力などなかった」、「関係なかった」と言われたり、ある時は「石を投げられた」と批判までされたと記憶している。しかし、政策変更を行った最後の政策決定会合となった10月の段階では、「政府の気持ちを感じている」とか「政府が考えている方向に合わせて決めた」というようなこともおっしゃっている。失礼ながら、非常に物わかりが良くなったなとの印象を当時は受けた。そういう心境の変化も含め、今、政府と日銀はどういう関係にあるべきかという点について所感をお聞きしたい。
【答】
先程申したとおり、新しい日銀法の第3条では、「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない」、「日本銀行は、通貨及び金融の調節に関する意思決定の内容及び過程を国民に明らかにするよう努めなければならない」と、「自主性」と「透明性」を謳っており、この二つは先進諸国の他の中央銀行も確保しているものだと思う。通貨及び金融の調節における自主性というのは、“政策の決定は、あなた方がやるのですよ”ということだと思う。しかし、それに対し、やったことについての説明責任(アカウンタビリティ)というものは、皆に納得して頂かなくてはならないし、その事について完全だったかどうかということについては、これからもずっと努力していかなくてはならないことだと思う。
その二つは、我々が決めるのであるが、第4条にあるように「政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう」よく話し合いをしなさいということは、私も重視してきたつもりである。経済財政諮問会議でもそうだし、月例経済報告閣僚会議でもそうであるが、大臣方とお話する機会はよくあるわけだから、色々な段階でそのようなことを十分行った上で、政策は日本銀行がフェアな立場でやりなさいということが法律で決まっている。ここは、言ってみれば、かなりはっきりしている。それを守ってきたつもりだし、これからもおそらく、そのようなことになると思う。
【問】
明日以降、超多忙な身から開放され時間的な余裕もできると思うが、今、何がやりたいか。
【答】
寝たいと思っている。翌日に予定があると——朝早かったり、夜遅かったりいろいろあるので——、どうしても睡眠不足にはなる。
もう高齢であるから、やはり身体を大事にして——先程老化というのは神様が与えた賜物と申し上げたが——、どうやって老化を防いでいくかということを自分の課題とし、歩いたり運動したり、テレビを観たり今まで読めなかった本を読んだりしたいと思っている。
やりたいことはいっぱいあるので、当分は大丈夫——老化は防げる——と思っている。
【問】
先程、2年前に総裁が辞意を表明したかどうかという質問に対して「私はしていない」と言われたが、改めてもう一度「神に誓ってなかったのか」ということについてお聞きしたい。もし、「ない」と言うのであれば、あのような報道が日本全国に流れたことに対してどのように感じられたか。また、この5年間の任期中に、政府や政治と日銀の関係は果たして望ましいものであったのか、ということについてもお聞きしたい。
【答】
先程申し上げたとおりである。いろいろあったけれど——かなり疲れていたことは事実であるが——、任期いっぱいやるつもりでいた。特にこれ以上申し上げることはない。
当時、プレスというものは恐いなと思った。政治との関係と言ってもいろいろある。国会に呼ばれればいろいろご批判されたりもするが、新しい日銀法の下では国会に対する説明もしなければならないので、必要があれば行って質問を受けてきた。先程申し上げたように日銀法の第4条はよく守ったつもりである。
【問】
日銀総裁を5年間勤められて良かったと思うか。
【答】
良かったというべきか——この難しいときにたいへん疲れたけれども——。景気が良くならなかったのは残念である。
デフレを1930年代以降、経験していない中で——銀行が潰れていったり大企業が潰れていくなど、どうなるかわからない状況の中で——、潤沢な流動性の供給を実行し、構造改革による民間需要の回復を待つ体制を早期に整えていたことが、景気を底割れさせずに済んだ要因だったと思っている。
「デフレ・スパイラル」といった言葉があるが、決してスパイラルになってはいない。物価の下落幅は縮小していると思う。そういうことも資金の潤沢な供給が効果を表したのだというふうに思っている。
【問】
回顧録をまとめる予定はあるか。
【答】
今のところ考えていない。
【総裁】
どうもお世話になりました。ありがとうございました。
以上