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米国の体験に学ぶ経済再生の基礎条件
脱工業革命仮説から見えてくる景観
全国銀行協会「金融」(平成12年1月号)への武富審議委員寄稿
2000年 1月 4日
日本銀行
目次
21世紀は新しい産業革命の開花期
気づかぬ間に変容していた米国経済
いまにして思えば、いささか迂闊であったと思う。90年代前半のことである。米国経済が回復の軌道に乗ったことを見届けて一安心した私は、海外経済分析の焦点をアジアに移してしまった。聖徳太子ならぬ身の悲しさ。注意力を研ぎ澄ますためには、その時々の観察対象を、戦略的に絞り込まなくてはならないからである。
結果として何が起こったか。その後の米国経済が、いつのまにか「雇用なき回復」から「雇用創出型の産業革命」へと転換していった道筋を、あえなくも見逃してしまったのである。そのことに漸く気がついたのは、昨年も後半のことである。97年夏場以降の経済・金融危機からアジアが立ち直り始めたことを確認した時点で、6~7年振りに、再び米国に関心を移してからである。いかにも遅きに失したと不明を恥じ入るばかりである。
もちろん、この間、米国経済が規制緩和と情報技術革新を軸にして復活してきた大枠はきちんと押さえてはいた。情報技術の発達が、サービスの多様化とコスト削減の有力な手段として活用され、企業のリエンジニアリングを推し進めたことも十分に認識していた。事実、前職の日本興業銀行時代に、産業調査部がこうした米国産業の実態を詳述した書物を上梓した際、私はその巻頭言を認めた。世間の一部からは、米国の良き先例が、先行きの日本経済の再生を考える上で参考になると注目され、テレビ出演の依頼も受けた。
また、エネルギーの配分上、自ら米国経済を分析しないまでも、米国において、従来とは異なる「生産性向上に牽引された景気回復」が持続している姿を、横目でしっかりと見てはいた。ヤング報告の考え方に基づいて、米国が、産業の復活・生産性の抜本的な向上に真剣に取り組むことによって挙げた成果についても、当然のことながら、よく認識していた。米国政府が、省庁横断的な組織を作り、経済の蘇生に向けて注力する強い姿勢を前面に出してきたことも、十分に分かってはいた。
さらにいえば、冷戦終結後、当初期待された「平和の配当」が結局は結実しないのではないかと失望感が広がった頃、私は、財政支出負担の軽減や軍事技術の民生転用などが有する潜在的な効果は、無視できないと睨んでいた。事実、その後、商業的に大化けするインターネット、移動通信、カーナビゲーションなどは、もとはといえば、みな軍事技術の流れを汲むことで良く知られている。
そこまでは良かったのであるが、「ニューエコノミー」論が取り沙汰され始めるに及んで、却って私の目は曇ってしまったようである。こうした論調が出始めた頃、私は、この中に、バブル的な傾向を後追いで正当化する類の「胡散臭さ」を感じとってしまった。日本が「いつかきた道」を米国も辿るのかと早合点してしまったのである。日本の多くの識者も同様の感想を述べていたと記憶している。正直のところ、米国人自身も半信半疑であったと思う。80年代の経済的困難に関する記憶が強ければ強いほど、こんなに良い経済状況が長続きするはずはないと、多くの米国人が用心深く考えていたのは事実である。
ところが、米国人のそうした警戒感をよそに、現実の経済はその後も良好なパフォーマンスを続けた。無論、その間、米国連銀の政策運営が的を射ていたことも、背景にはあろう。しかし、どうやら、それだけでは説明のつかない経済展開を目の当たりにして、次第に多くの人達が、なにかもっと次元の異なる変化が米国経済の内奥に生じつつあると、意識し始めたのである。最近になって、あの慎重居士のグリーンスパン議長さえも、これは百年に一度の大きな変化だと公言するようになったほどである。
雇用なき回復からラッダイトなき革命へ
情報・通信などの先端分野に従事している人々にとっては既に常識かもしれないが、もしかすると、現下の米国産業は、ある種の産業革命あるいは創造的シュトルム・ウント・ドルンクの時代を潜り抜けているのではないか。「ラッダイト運動」を伴わないために目には見え難いだけなのかもしれない。米国の投資家が、本能的にこうした雰囲気を察知したからこそ、常識的には高すぎるかに見える米株価が、予想に反してなかなか反落しなかったのかもしれない。言ってみれば、米国経済全体が、いまの歴史局面において、たまたま複雑系の経済学で言うところの「収穫逓増」過程に入った、ということであろうか。経済復活へ向けて蒔かれた種子が新たに産み出し始めた色々なモーメンタムが折り重なり、90年代後半という時期に、良い形で収斂の方向性を見い出した、ということであろうか。いわゆる「自己組織化」のプロセスに弾みがついたようにも見える。
この産業革命の性格は、単純に言えば、脱工業化革命であろう。私が、ある日本の識者に、米国では産業革命(industrial revolution)が起きているかもしれないと申し上げたところ、それは、恐らく「脱工業・革命(post-industrial revolution)」と呼ぶべきでしょうと、即座に喝破された。米国人の中には、より直截簡明に、de-industrialization の過程だという人もいる。日本でも、最近、「デジタル産業革命」なる用語を使う向きも現れ始めた。
これも、ある米国人の見解であるが、18世紀の第一次産業革命、20世紀初頭の第二次産業革命の例から見ると、革新的な技術が開発されてから実際に産業革命が花開くまでには、約四半世紀の長期間を要した由である。人間が、新しい技術を使いこなすまでに、通常、25年位はかかるからというのが、その理由である。この伝でいけば、今回の産業革命の起爆剤が、いまからちょうど25年前に誕生したマイクロプロセッサーであったことに照らせば、IT革命を軸にした産業革命がより本格的に進展するのは、むしろ21世紀の初頭以降ということになる。
未体験領域が内包する怖さ
ところで、もう一つ注意しておきたいことは、米国における産業革命の推進力になっているのは、ひとりIT革命に止まらないという点である。遺伝子工学をはじめとするバイオテックも、車の両輪として、現在の米国経済を牽引している事実を見逃してはなるまい。平均寿命が百歳まで伸びる可能性も視野に入ってきている。しかし、そうなれば、年金制度の設計思想が、根幹から覆されることにもなろう。過去の常識や前提が通用しない世界が幕を開ける怖さを感じざるをえない。
このことからも分かるように、とかく物事には表があれば裏もある。いまの米国経済を絶好調に導いたデジタル革命、バイオ革命の進展が、本質的にはアナログ感覚の人間にとって、先行き福音を意味するのか、はたまた脅威となるのか。現下の産業革命には、「華がある」だけではなく、どうやら「棘」もあることを、過不足なく認識しておく必要がありそうだ。さらに踏み込んで言えば、米国が長期に亘る経済繁栄を謳歌していることを正に反映して、対外経常赤字が累積していることも大きな棘である。米国における高い期待資本収益率が今後も維持できれば、世界から資本を無理なく吸引できるであろう。しかし、米国経済の現局面が産業革命ではなく、単に普段より長めの景気上昇波動の枠内に止まっているのであれば、いずれは株価調整・資本流出に伴うドル価値の調整が起こりうることにもなりかねない。この点については、改めて言うまでもなく、引き続き細心の注意を払っていく必要があろう。
産業革命仮説が告げてくるもの
いずれにしても、米国経済が産業革命を通過中かもしれないという所論は、あくまでも粗っぽい仮説の域を出ていない。しかし、仮にこの仮説が正しい場合には、それが有する含意はかなり深遠である。米国経済が、株式市場の調整や経常赤字のファイナンス問題をこなして円滑に軟着陸できるか否かといった問題設定では、米国や世界の経済が経験している大きな変化の全貌を把握し切れない可能性もあるからである。少なくとも、ごく単純な循環論だけでは、米国経済の先行きは包括的に見通し難くなるであろう。産業革命の広がりが、ある種の飽和点に到達するまでは、普通の意味における循環的な景気後退が、明確な形では表面化しない可能性も考慮しておく必要があろう。いや、そうした変化の中でも、やはり景気循環は繰り返されると見るべきなのかもしれない。そして、その都度、産業革命が一段と深化していく筋合いにあると考えるべきなのであろうか。
また、この仮説は、日本においても、21世紀に入って経済・産業を復活させうる可能性が開けてくることを、示唆してくれてはいまいか。日本の労働慣行や税体系が米国とは異なる点が、あるいは制約条件になるかもしれないが、情報・通信技術の進歩と普及に伴って米国で実現した経済・産業・企業経営に亘る壮大な洗い替えを、日本においても達成できないということはあるまい。日本企業が、後ろ向きの構造調整になんとか目鼻をつけた暁に、残された経営資源を前向きに配分していく上で、米国の実績が示唆するところは大である。
米国の大手既存企業についてみると、社名こそ10年前と同じではあっても、その事業内容が一変している事例は枚挙に暇がない。いずれも、既往の事業分野で行き詰まり状況に逢着したことを契機に、経営トップが更迭され、大胆な事業再編を短期間に成し遂げた結果である。多くの場合、IT革命の流れの中で、その時々の成長最先端であり、かつ自社の経営資源が合致する分野を絞り込み、果敢に変革を遂げた事例である。日本でも今後こうした方向を目指す場合の道標を整理し、後程、それを以って、この小論の掉尾を飾りたいと思っている。
低インフレが米国産業革命の誘因かつ帰結
自己組織化の苗床を用意した低物価
90年代後半の米国経済に、産業革命の胎動ともおぼしき潮流をもたらした要因を特定するのはきわめて難しい。また、恐らく、特定する意味もないだろう。要するに、前向きなエネルギーを溜めた諸々の粒子・分子が運動を続ける中から、ある臨界点を超えたところで一塊りの創造的な爆発が始まった、とでも喩えられようか。伝統的な経済理論で説明可能な変化というよりも、複雑系の経済学が示唆する一種の自己組織化過程として捉えるほうが、より我々の感覚に合う現象だということは、既に触れたところである。
仮に、諸々の粒子や分子が運動し易い土壌が何かあったとすれば、その一つは、80年代半ばの時点で、それまでの高インフレ体質が既に是正の方向で定着していたことを挙げるべきだと思う。この流れに沿って、その後、金融政策の裁量余地が格段に拡大したメリットは特筆に値する。産業活動や企業経営を遂行する上で、自由度の高い外部環境が整ったからである。短絡して言えば、このことが、今日の産業革命的な動きにも繋がったと見てもよかろう。
コストプッシュインフレの終息
80年代の冒頭にレーガノッミクスが登場した当初は、一部に、これはブードゥ・エコノミックスではないかという批判もあった。しかし、振り返ってみると、供給サイドを中心にした政策体系が、その後の経済・産業の復活に貢献する地盤を形成したことは、いまでは広く認められている。低インフレの素地という、此処での論点に絡ませて言えば、強いアメリカ政策の一環として採用したドル高が一つのキッカケとなって、米国が長年悩まされ続けた賃金コストプッシュ型のインフレも、漸く終息に向かった事実に言及すべきであろう。
コストプッシュ型のインフレが収束していった流れは、大要、次のようなものであったと回顧される。ドル高により、米国の伝統的産業は苦境に立たされた。私自身が関わったことのある米国パルプ産業の例で見ると、同じ針葉樹系のスカンディナビア産パルプに比べ、ドルベースの製造費は、一時、5割以上も割高を余儀なくされたほどである。当然、すさまじい合理化圧力が加わる。この中で、レーガン政権は、組合に対して強い姿勢で臨んだ。企業別ではなく、職種別に組織された米国組合の抵抗は極めて強かったが、次第に、組合も賃金闘争から雇用確保に戦略転換を図るに至った。また、単機能から多機能工を容認する方向へ組合も動いた。
組合に対するこうしたレーガンの姿勢は、その後、サッチャリズムに受け継がれ、少なくともアングロサクソン経済には伝播していったといえる。こうした潮流の中で、米国の伝統産業が、いわゆるスノーベルト地帯から組合組織率の低いサンベルト地域へ徐々に移転していったのである。このことも、賃金水準の適正化を加速させたといえる。恐らく、女性の労働市場参入比率が高まったことやDINKSと呼ばれる共働きが増えたのも、以上の流れと、全く無縁であるとはいえまい。これには、単に自己実現の機会を求める風潮が強まったという側面だけではなく、生活水準を維持するために一家計当たりの所得を減らさないための現実的な動き、という側面もあったと想像されるからである。
石油価格の適正化
第二次石油危機に伴う石油価格の急上昇が世界経済に壊滅的な打撃を与えた反省から、80年代以降、OPECの石油供給政策が大きく方向転換したことも、その後、世界的に物価上昇が抑えられた重要な要因である。米国産業にとって、賃金の抑制と石油価格の安定が極めて良好な環境を意味したことは、想像に難くない。昨年から、原油価格が再び上昇し始めており、今後は予断を許さないとはいえ、基本的には、80年代から90年代を通じて物価環境は勝れて落ち着いていたと評価できる。
要素価格の均等化現象
これらの物価低下要因に加え、80年代半ばにプラザ合意が成立したことや80年代末にベルリンの壁が崩壊したことも、世界的に物価が沈静化する方向へ作用した。米国は、一頃のドル高圧力の下で組合の戦闘的な姿勢が是正された後になって、今度は、一転してドル安政策を採用した。ドルの価値が円に対して半分に減価する中で、日本は、低い生産コストを求めてアジアなどへ直接投資を進めざるを得なくなった。同様の圧力に晒されていた旧西ドイツは、ベルリンの壁崩壊後、旧東ドイツなどの東欧諸国へ、これまた生産設備を移転させた。このようにして、低い生産コストを武器とするエマージングマーケッツが、供給能力の新しい担い手として、急速に世界市場に登場してきたのである。
これが、いわゆる世界的な規模における要素価格の均等化圧力を醸成した。これによって、旧来見られた先進国における賃金の下方硬直性も揺さぶりをかけられる結果となった。多くの先進国は、高賃金や柔軟性に欠ける労働慣行などを墨守すれば、失業率が上昇しかねない事態に追い込まれたのである。生産設備を本国に残したままグローバルスケールの要素価格均等化に対抗するためには、賃金調整か生産性の向上しかない。先進国の個別企業が生き残るために採りうるもう一つの方途は、生産工程の一部を海外にアウトソーシングすることなども含めて、世界的な最適供給・最適調達の道を選択することである。90年代は、こうした激しい供給体制の再編成が世界規模で続いた10年であった。その中で、いずれの国においても、物価水準は押し下げられた。
供給者に対するIT革命の圧力
さて、それでは、IT革命の進展は物価に対してどのような影響を及ぼしたのであろうか。ここでもまた、物価には低下圧力が働いたと見ることができる。情報・通信を中心にした領域における技術進歩のテンポは極めて早い。この分野では、新技術・新商品の付加価値が幾何級数的に飛躍する割には、価格は低く抑えられる歴史を辿ってきている。かつて、日本の耐久消費財市場でも同種の現象が見られたが、いま情報技術分野で起きている価格現象は、これを遥かに上回り比較にならない。
そればかりではない。インターネットの普及に伴い供給者と需要者が直結し、価格設定の枠組みが大きく変わり始めている。仲介業者の中間マージンが要らなくなる分、末端における価格は、従来水準よりも大幅に割安に出来ることなどが、その背景にある。中古車市場を例にとってみよう。全国一律5万円のデリバリー費用さえ払えば、気に入った車の画面をクリックするだけで、国内のどこからでも、昔よりも安い値段で車が自宅まで届けられるようになっている。素人の想像に過ぎないが、e-commerceにおいては、似た商品やサービスの価格情報が瞬時に潜在的な消費者群によって共有されるため、よほどの商品差別化が存在しない限り、戦略的な価格を設定した供給者に他の供給者も合わせざるを得ない、という意味の裁定圧力が働くのではないか。また、従来であると非貿易財と観念されたものも貿易財化する結果、国際的に一物一価の原則が貫徹されやすくなるのではないか、と思うのである。
別の角度から見れば、要するに、IT革命の活用による生産性の向上を梃子にして価格引き下げの余地が生まれた。生産性向上における熾烈な競争に勝ち抜いた供給者は、その段階で、戦略的な価格政策を実行に移すことが出来る。市場において優位に立つことになる。こうした優位性を活かして、さらにもう一段、生産性を向上させるための設備投資を行うことが可能となる。ある期間は、業界における地位が確固としたものになる。しかし、新規市場参入を含め競争が激しい中では、安穏として胡座をかき続けることは出来ない。こうした圧力が常に働き続けることを通じて、価格の低下も持続したといえよう。
価格低下の新段階
以上見てきたように、過去15~20年の長期間に亘り、世界の物価環境は、おおよそ4段階を経ながら、大勢観としては、改善の方向を歩んできた。すなわち、賃金コストプッシュインフレの終焉、OPECによる合理的な石油価格政策への回帰、国際的スケールにおける要素価格均等化、そして、足許における情報技術革新を反映した「新価格革命」、という4段階である。各国別には、為替相場の変動によって、こうした世界規模における物価メガトレンドの現われ方に差が出てくるとはいえ、なべて言えば、世界の多くの国々が、物価安定の恩恵を享受してきたのではあるまいか。特に、インフレ体質の国々にとって、これは僥倖に近い環境であったといえる。
既述の通り、上記の3段階までを反映した物価安定を足場として、欧米主要国では、金融政策が機動的・弾力的に発動しうる状況を迎え、これが産業活動の新しい力を引き出すマクロ環境の整備に役立った。米国では、このことも大きな誘因となって、現在の情報技術革新・生産性向上をキーワードとする前向きな産業構造の変化を遂げたのである。そのことが、今度は4段階目の新価格革命をもたらし、物価がさらに落ち着くという循環を作り出している。
物価目標論議の危うさ
最近、およそ中央銀行たるものは、物価目標を設定すべしという論議が盛んである。この論拠としてよく持ち出されるのが、英国、ニュージーランド、カナダなど、既に物価目標を導入した国の金融政策が、概ね成功しているという先例である。確かに、中央銀行が物価の安定に照準を定めて政策運営を継続した結果、これらの国々においてインフレが抑制されたのは事実であろう。しかし、インフレ抑制を全て金融政策の功績によるものだと見るのは、やや行き過ぎのような気もする。もともと、これらの国々はインフレ体質の経済であった。これまで述べてきた世界的な物価のメガトレンドそのものが、これら諸国の根強いインフレ構造を解体した効果もあった、と推察されなくもない。
いまの日本経済はデフレ体質だといわれる。現在の世界的な物価動向から見ると、インフレ体質よりもデフレ体質のほうが対応は難しい。過去20年近くに亘って、世界の物価には構造変化が進み、現在に至っても全体として物価水準を引き下げる強大な圧力が働いていることは、詳しく見てきた通りである。しかも、いまはオープンエコノミーの時代である。この中で、仮に日本が2%内外の消費者物価目標を設定したとして、果たして、教科書通りに国民の間にインフレ期待が形成されるのであろうか。現実の物価水準よりも高めに目標を定めれば、需要が誘発されるのであろうか。また、現実問題として、供給者側が、販売価格を引き上げられる環境にあるのだろうか。これらの可能性が絶無とは言わないが、物価目標設定推進論の多くは、やや観念論の域を出ていないとの印象を持たざるを得ない。
観念論であればまだよい。しかし、インフレーション・ターゲティングという美名の陰に見え隠れしているのは、やや邪まな思惑であるようにも聞こえる。内心は、不動産価格や自社の販売価格だけ上がって欲しい、負債の返済が楽になって欲しい、などと思っているのかもしれない。このように願っている人達の一部は、一方では、市場原理の貫徹、内外価格差・内々価格差の是正、仕入れ価格の引き下げなどを、同時に主張していたりするのが不思議である。市場原理とは、収益還元法で不動産価格が決まることを指す、と承知の上でインフレを期待する向きが仮に居るとすれば、これはかなり質が悪い。
経済再生に活かしたい低物価・低金利環境
そもそも、日本は、いま、デフレなのであろうか。確かに、需給は軟化しており、需給ギャップはなかなか解消しない。しかし、問題の核心は、バブル時代の高い需要水準に見合った供給ストックの大きさにある。それでも、消費者物価は、なんとかゼロ近辺に踏みとどまっている。需要の減少が、生産や雇用・所得を介して再び最終需要の減少に結びつき、物価がスパイラル的に下落しているわけではない。現在、物価水準が、過去に比べて切り下がっているのは、需給関係を反映している部分よりも、物価を巡る世界的な構造調整に即応している部分のほうが、遥かに比重が高いと思えてならない。米国の後を追いかける形で、もし日本でも第三次産業革命的な胎動が始まりうるとすれば、現在の低物価・低金利というマクロ環境は、米国でもそうであったように、必ずや強い援軍になると考えたいところである。
日本産業の復活を誘導する3つの道標
そこで、今後、日本の企業が本格的な事業再構築を進め、米国流の産業革命を目指すための道標を、象徴的に3つの「C」に集約してみた。Collaboration、Capital、そしてContentsの3つである。
民間主導による立案・オルガナイズ機能の大切さ
先ず、collaborationから始めよう。これは「協働」とでも呼ぶのが適当ではないかと思う。産・官・学が、改めて新しい意識で協力し合うシナジー効果を活かして、起業精神の具体的な発揚を支援する営みのことである。
多くの人が、「またか」とうんざりするかもしれない。これまで、この種の試みは、抽象的な理念論や掛け声だけに終わった事例が余りにも多すぎるからである。しかし、ここで念頭においている「官」は、中央政府というよりも、地方公共団体や地域コミュニティーが擁する公共インフラ(例えばネットワーク集積)であることを、先ず強調しておきたい。そして、「協働」の推進力は、あくまでもプライベート・イニシャティブに委ねることを中心思想にしていることも、指摘しておきたい。この場合、欠かせぬのが、catalyst(触媒役・オルガナイザー)の存在である。ここでも「C」がキーワードとして登場してくることは興味深い。
マクロ経済の隆盛は、地域産業活動の活性化から始まるはずである。中央集権の色彩が濃い日本と比較して、米国は、伝統的に地方分権、ヒト・モノ・カネ・チエの地方分散を特色としている。前述した90年代における米国経済の変貌は、米国における「地域の強み」を抜きにしては語れないと思う。
この典型例として、誰もがすぐに想起するのがシリコンバレーであろう。近隣における大学群の存在による技術・ノウハウ・人材などの即時供給態勢、西部海岸に残る旺盛な開拓者精神や起業を尊重する社会的な雰囲気、上方志向の強い移民の流入、過去から築き上げてきた実績の相乗効果、運輸・通信網の整備など、いずれも同地域の活性に貢献している。こうした好材料が揃っていても、現実に新事業を簇生させるためには、やはり、地公体、アカデミア、経営者、投資家、無名の若手人材などを束ねて、事業化を巡る条件整備について現実的なアドバイスができる産婆役が存在したほうがよい。シリコンバレーには、この種のコンサルタントも少なくない。
90年代を通じて、米国全土で、各地区の特性を活かしたハイテク地域が誕生したという。ハイテクの集積は、もはやシリコンバレーの独占ではなくなると同時に、全国に分散しているそれぞれの地域が独自色を出し、ハイテク産業を地域活性化の中核に据えている。スノーベルト工業地帯の典型的な都市であったアクロンでは、市全体が、旧来産業から新産業へと塗りかえられた由である。また、技術集約は、郊外だけではなく、街中においても進んでいるようだ。バレーではなく、アレー(alley)という呼び名がハイテクの象徴になりつつある。
日本でも、渋谷界隈をビット・バレーと呼ぶようになった。日本の若手も、挑戦する精神のある人材は、デジタル革命を自分のものにしている。大いに楽しみである。また、地域財界との「金融経済懇談会」に出席するため、日本の地方に出掛けて先ず気がつくことは、どの県でも、知事を先頭にして、地方大学と手を組んだ「情報化・ハイテク化」プロジェクトを推進しようとしていることである。経済、学術研究、地域の技術遺産、人脈、文化などに亘って横断的な理解や経験があり、立体的な思考ができるオルガナイザーがいれば、日本でも、地方を出発点にした新産業の育成が可能にならないだろうか。地方では、いま、若者の就職機会が少ないだけに、この方向への取り組みを加速し、深めていく必要がありそうだ。
いま、日本の世の中には、モラルハザードという名の妖怪が徘徊しているように見える。困った時には「お上がなんとかしてくれる」という待ちの姿勢と依頼心が、いつのまにか習性になっているかのようだ。ケネディーの大統領就任演説を引用するまでもなく、国が何をしてくれるかではなく、国に何が出来るかをお互いに考えたいものである。中央政府が、政策を立案してくれることに頼って自らは汗をかかない国民に明日はない、と知るべき段階に入っている。自ら参画して創り出す「辛さと喜び」を知ることが、経済復活の原点である。
事業と人を見る眼の涵養
つぎに、capitalについて触れてみよう。ここでは、新事業へ投資するリスクキャピタルの重要性に加え、ヒューマンキャピタル抜きには、IT革命を軸にした知識集約型産業への移行を、円滑には進められないことも念頭においている。
この問題を考える際に、先ず思いつくのは、税制、会計制度、人材育成センターなどのソフトインフラが、リスクテイクや創造性の発揮に対してフレンドリーな枠組みで整備されないと、ことは進まないという発想が日本では強いということである。確かに、これは、一面の真理を突いている。特に、税制については、良く議論が出る割には、目に見える進歩がないと伝え聞くことが多い。
しかし、本質的に必要とされるのは、社会全体を流れる起業に対する許容的な雰囲気である。これは、文化や歴史とも関わるだけに、一朝一夕には変えられないかもしれない。リスクビジネスに資本投下することを、山師的な行為とみなすかどうか。異能の持ち主が、一見、非常識なアイディアを提示したときに、変わり者扱いをするかどうか。偏差値で優秀な人の言うことが、概ね正しいと思うかどうか。受け止める側の、心の広さ、深さ、柔軟さが問われる問題である。同時に、リスクテイカーや異能の持ち主の数が少ないこと自体が、社会の雰囲気を変え難くしてしまう、という面もあろう。
また、資本の本源的な所有者である家計部門では、引き続き安全指向が根強い。高齢化時代の年金問題に絡む将来不安や住宅取得におけるaffordabilityの低さなどを背景にして、老若男女とも、貯蓄にこれ励む姿勢を堅持している。こうした不安を形成している根本問題そのものを解決することが、迂遠なように見えても、リスクキャピタルを引き出し、起業の隆盛を通じて産業地図の塗り替えを可能にする本筋の対応であろう。もちろん、その前に、企業部門内の資本蓄積をいかに収益率の高い事業に振り向けるかという問題があることは言うまでもない。
その場合、やはり一番重要なことは、資本家と事業家を仲介するファンドなどの専門的な機関投資家が、事業と人を見抜くだけの眼力を備えているかどうかである。技術刷新の激しい情報通信など最先端の分野では、殊のほかそうである。経験やノウハウの蓄積がものをいう世界であろうが、やはり、他人に先駆けてまず第一歩を踏み出さなければ、じり貧を覚悟するより仕方がない時代に入っているのである。
移ろい易い需要に即応する身軽な供給態勢
最後に、contentsの良し悪しが、IT革命の最終的な主戦場で死命を分けることを指摘しておきたい。因みに、コンテンツとは、インターネットでやり取りされる情報の中身であり、その情報に基づいて売買される商品・サービスそのものでもある。
IT関連分野におけるこれまでの流れは、おおまかに言えば、当初のハードウェアから、ソフトウェア、デザイニング、ソリューション、コンテンツへと焦点が移ってきており、いまやソリューションとコンテンツが戦略領域になっている。素人考えではあるが、コンテンツの決め手は、conceptを開発する供給側の能力(企画力)によって、いかに需要側(customers)に対して充足感(contentな心理状態)を与えられるかである。不思議なことに、ここでもキーワードは「C」である。
しかも、コンテンツは無限に広い。事業展開に当たっては、ターゲットを絞り込まなければならない。例えば、エンターテインメントに特化したとしても、まだ対象は多様であり、さらなる絞り込みが必要である。しかも、顧客の嗜好はめまぐるしく変化する。これに即応するには、重装備の設備投資は効率的ではない。とはいえ、投資抜きには競争に打ち勝てない。
このため、一つには、短期間で投資が回収できるだけの高い収益率を見込める分野を見抜いて選択する能力が問われることになる。もう一つは、短期間に、大量の顧客を引き付けて圧倒的な市場シェアを確保できるような商品開発の企画力が求められることになるのである。
これからの10年に期待
2000年の正月を迎えた今もなお、日本経済は、残念ながら、明日への明確な展望を描けないまま匍匐前進状態を続けている。日本の景気がちょうどピークを打った91年5月に民間の調査部長に就任した私は、先行き、日本経済が長期間に亘る厳しい調整を余儀なくされると直覚し、嫌われ者になっても仕方がないと覚悟を決めた。昨日のことのように思い出される。翌92年初には、中曽根元首相の名言を拝借して、日本は「戦後経済の総決算」過程に入った旨のメッセージを発信させて戴いた。当時、まだ楽観論を捨て切れない人が多い中で、私は、「デフレ顔」という有り難い渾名を頂戴する羽目に陥った。
あれから9年近くたった現在も、日本経済の構造調整は続き、総決算過程は、まだ完全には終了していない。しかし、循環面から見ると、足許の景気には、それなりの改善傾向が見られる。この改善が、もっぱら財政・金融政策によって支えられてきたことは事実としても、民間部門のリストラ努力が実を結びつつある事例も少なくない。ここ数か月、私は「デフレ顔」を返上してもよいのではないかと思い始めている。そろそろ、これからの10年に焦点を当てて、前向き思考に転じてもよいだけの材料が揃いつつあるのではないか。そうした思いから、今回、新年に当たり、試みに明るめの将来展望を描いてみた。
なお、上記の脱工業革命仮説の内容については、各分野の専門家の眼から見れば、陳腐であったり、理解不足が目立ったりするであろう。また、正統派のエコノミストなどから見れば、バランスを欠いていたり、理論的でない、と映る部分も多いであろう。こうしたことを十分に承知した上で、敢えて、世の中における思考と行動を刺激することに重点を置いて、書き記してみたものである。開陳した見解は、当然、私個人のものであり、責任も本人に帰属することは言うまでもない。
以上