ホーム > 日本銀行について > 講演・記者会見・談話 > 講演・記者会見(2010年以前の過去資料) > 講演・挨拶等 2000年 > ゼロ金利政策解除の背景と今後の金融政策運営──2000年9月28日・熊本県金融経済懇談会における田谷審議委員挨拶要旨
ゼロ金利政策解除の背景と今後の金融政策運営
2000年9月28日・熊本県金融経済懇談会における田谷審議委員挨拶要旨
2000年9月28日
日本銀行
[目次]
1.はじめに
日本銀行審議委員の田谷禎三です。
本日は、九州地方の中央に位置し、九州経済全体からみても重要な役割を果している熊本において、各界の皆様方と親しく懇談させて頂く機会を賜り、感謝しております。また、日頃、私どもの熊本支店がいろいろとお世話になっておりますことに改めてお礼申し上げます。
私は、昨日、当地へ参りましたが、途中、飛行機の窓から、有明海や熊本平野、世界一のカルデラを持つ「阿蘇くじゅう国立公園」など、山あり、海ありの美しい景観に富んだ地形を臨むことができました。空港到着後、「シリコンアイランド九州」の中でも中心的地位を占める当地において、IC関連企業を訪問し、今時代の最先端を走っているIT産業の活況を肌で感じました。当地は、環境庁選定の「名水百選」に選ばれた水源が4箇所もあり、豊かな自然がこうした産業の発展に大きく寄与していることを認識致しました。また、当地では、明治維新以降、米国人ジェーンズ、徳富蘇峰、小泉八雲や夏目漱石などが教鞭を取り、教育に力を入れられたと伺っております。こうした教育振興の精神は、「産」、「学」、「住」が一体となり調和した街作りを標榜した「熊本テクノポリス計画」にも受け継がれ、現在、「テクノ・リサーチパーク」では、特色のある中小企業が育っていることを心強く思いました。
さて、今日は、まず、私の方から、ゼロ金利政策を解除する背景となりました最近の経済金融情勢、解除後の市場の反応、そして、今後の金融政策運営につきましてお話しさせていただきます。その後で、皆様の忌憚のないご意見をお聞きかせいただきますとともに、懇談させていただきたいと思います。
昨年2月、日本銀行は、経済のデフレ的状況が悪化する危険に直面して、ゼロ金利政策を採用し、その直後の4月には、政策効果をより強めるために、ゼロ金利政策をデフレ懸念の払拭が展望されるまで続けるということを表明してまいりました。そこで、そのデフレ懸念とはどういうものなのか、ということから話を始めさせていただきます。まず、何らかの理由、たとえば、人々が経済の先行きについて非常に悲観的になったりすることで、消費や投資が落ち込んで、経済全体の需要が下がったとしましょう。そうしますと、需要の水準は経済の持っている供給能力を下回るようになり、物価に低下圧力がかかります。需要不足によって物価に低下圧力がかかるということは、企業からすれば、物を売るために値段を下げなければならないということですから、企業の売上げや利益が下がることになります。そうなりますと、設備投資を手控えることになりますし、雇用や賃金を下げざるを得なくなり、個人消費も下がることになります。民間需要の柱である投資や消費が下がれば、さらに物価が下がることになります。デフレ懸念とは、こうした悪循環に陥る懸念を指します。実際にも、一昨年末から昨年初めにはこうした懸念が強まりました。日銀としましては、こうした懸念が強く残る限り、ゼロ金利政策を続けると表明することにより、将来の金利形成に対する人々の期待を安定化させることを通じて、超短期の金利ばかりでなく、より長めの金利も低位で安定させるよう努めてまいりました。
「デフレ懸念の払拭が展望できるまで」といった表現が分かり難い、あるいは、あいまいだ、といった批判もありました。そこで、これとほとんど同じことを別の表現でも説明してまいりました。たとえば、「民需の自律的回復が展望できるまで」と言ったり、「先行き需要の弱さによる物価低下圧力が十分小さくなるまで」と言ったりもしてまいりました。ほとんど同じことを言っていたわけです。なぜ民需の自律的回復と言うかといいますと、たとえば、公共投資によって一時的に公的需要が追加されることで全体としての需要不足が緩和され、物価低下圧力が仮に弱まったとしても、民間の需要が持続的に増える状態にならない限り、公的需要が下がると、再び需要低下と物価下落の悪循環が起こる惧れがあるからです。一方、なぜ需要の弱さによる物価低下と言って、単に物価低下と言わないかということですが、たとえば、物価は供給サイド、つまり、企業側の合理化努力などによっても下がりますが、その場合は必ずしも企業収益が減少するわけではありませんので、悪循環を起こすとは限りません。より少ない人数でそれまでと同じだけのものが作れるならば、売り値を下げても儲かるわけです。ただ、そうした生産性引き上げの結果として余分になった労働力がその他の生産活動に使われなければ、経済全体としての需要が不足することになってしまいます。ですから、物価情勢を評価するには、企業収益や雇用・所得環境を見ることも必要になります。
ゼロ金利政策は先月解除されたわけですが、それは、あくまでも「デフレ懸念の払拭が展望できるようになった」、あるいは、「民需の自律的回復が展望できるようになった」、あるいは、「先行き需要の弱さによる物価低下圧力が十分小さくなった」と判断したからであって、直接的には、ゼロ金利政策の副作用のためではありません。翌日物金利をゼロにすることによる副作用はあるとしても、それを上回るメリットがあると判断したからこそ、そうした政策を採用したわけです。ましてや、日銀の独立性を証明するために、政府の反対を押し切ってゼロ金利政策を解除したわけではありません。政府と経済情勢判断について完全には一致できなかったことは残念なことではありましたが、ゼロ金利政策を解除する条件としていた経済状況になったと判断しても解除しないということになれば、本当の意味で日銀のクレディビリティー(信認)が問われることになったと思います。
2.最近の経済情勢
そこで、次に、ゼロ金利政策を解除する背景となりました最近の経済情勢についてお話ししてみたいと思います。今年に入りましてから、景気は緩やかながら回復傾向をたどってきております。以下では、設備投資、個人消費を中心にお話し致します。
今年度の設備投資は4年振りにプラスとなりそうです。つい最近発表されました日本政策投資銀行の今年度設備投資計画調査、これは資本金10億円以上の3000社を超える大企業に対する調査ですが、これによりますと、前年度に比べ、製造業で+15.2%、非製造業で+4.4%、産業全体でも+7.6%となっております。この種の調査結果は、これまでのところ、時が経つにつれて数字が上方修正されてきております。また、設備投資の先行指標である機械受注は大幅な増加が続いており、少なくとも今年後半から来年初めあたりまでの設備投資の増勢ははっきりしてきたように思います。たとえば、先月の金融政策決定会合直前に出ました6月の機械受注は、前月比+14.4%、前年比+28.2%と大変強い数字でしたし、7−9月の業界見通しも前期比+10.7%でした。機械受注につきましては、昨年12月に強い数字が出た後、数か月間弱めの数字が続き、設備投資の先行きについて慎重な見方も台頭していました。その後、7月の機械受注が前月比再び低下したり、第2四半期の国民所得ベースの民間設備投資の前期比変化率がマイナスであったりしました。しかし、こうした前月比あるいは四半期ごとの変化率がマイナスだったりすることは上昇トレンドの中でもよくあることで、特に、その前の期に大きく伸びたりした後に反動が起こります。ただ、それぞれの数字の前年比が増加し続けていることからしても、設備投資は依然として回復基調を辿っているものと思われます。また、最近の設備投資がIT関連投資によって牽引されてきていることは確かですが、回復過程が続くにつれて、より広い分野へも広がりつつあります。こうした設備投資回復の背景には、企業収益の大幅な改善があります。各種アンケート調査によりますと、大企業の経常利益は、今年度、来年度とも二桁の伸びになりそうです。また、製造業の生産や第3次産業活動指数も、月々の変動はあるものの、傾向としては伸び続けています。こうした下で、産業部門別、企業の規模別に濃淡はあるものの、設備投資の回復の持続性、広がりとも、より明確化してきたと思われます。
現在、企業部門の回復が先導して、緩やかな景気回復過程に入ってきたことについては、政府を含め、広い認識の一致が見られます。ただ、より慎重な見方をとる人々は、民間設備投資の回復の広がりと持続性に疑問符をつけるとともに、特に、個人消費の回復にまだ懐疑的です。この関連で、いわゆる「ダム論」の妥当性が議論されてきています。ダム論は、しばしば、「企業収益が改善してきているのは、言ってみればダムに水が溜まってきていることになり、溜まった水がダムから放水されるように、増加した企業収益は結局は所得の増加として労働者に流れ始め、個人消費の増加をもたらすことになる」との議論であると受け止められています。しかし、企業は、利益をまず、過剰債務を減らしたり、年金債務の積み立て不足を解消したり、資産の評価損を処理したりするために使いますし、遅れていたIT関連投資などもしなければなりません。懐疑論者は、ダムには大きな穴があいていて、なかなか雇用・所得の増加には結びつかないことを強調します。また、こうした見方の背景には、バブル崩壊以降、昨年あたりまで、日本の企業が、過剰な雇用や賃金の調整を収益の落ち込みに比較して限定的なものにとどめてきたために、労働分配率(つまり、収入のうち労働者に賃金として支払う割合)が大幅に上昇してしまったこともあります。今年度からは、企業収益が増える下で、労働分配率をより正常な水準に引き下げて行かなければなりませんし、実際、すでに下がり始めています。ダムに穴があいているというのも、その通りでしょう。
ただ、事実はどうでしょうか。事実は、雇用の悪化はほぼ止まりつつあり、賃金は非常にゆるやかではありますが増え始めています。これがほぼ確認できたのが先月あたりのことです。まず、雇用ですが、労働力調査によりますと、就業者数の減少は7月には前年比0.1%まで小さくなってきましたし、雇用者数は+1%と、概ね横ばい圏内ながら、わずかなりとも増加気味になってきました。特に注目すべきは、最近の自営業主・家族従業者の減少が第一次オイルショック時に次いで大きなものとなっていますが、それを雇用者の増加でほぼカバーする形になっていることです。経済の構造変化を吸収しながら、労働市場の悪化が回避されるようになってきました。
所得面でも、毎月勤労統計によりますと、民間の夏のボーナスは中小企業を含めて前年比プラスになったようですし、生産の増加に伴って、所定内・所定外給与は緩やかながら増加基調を続けています。ボーナスの減少が止まり、若干なりとも増え始めたことが数字の上でほぼ確認できたのは、先月のことです。年末のボーナスも去年に比べれば増えるでしょう。公務員賃金の低下を考慮しても、全体として昨年に比べて賃金は下げ止まったと思われます。ダムからの放水はほんの少しですが増える傾向にあります。各種の消費者コンフィデンス指標も基調としては改善してきており、トレンドとして見れば、消費性向の下げ止まりもはっきりしてきています。消費関連の統計は、流通分野での変化や人々の嗜好の変化を映して、強弱入り交じっていますが、月々の、あるいは、四半期ごとの振れを伴いながら、個人消費は緩やかな回復に向かいつつあると思います。
ここで、投資、消費以外の主要な支出項目についても若干触れたいと思います。まず、公共投資ですが、現在、昨年末の補正予算執行が年央までで一巡したようですので、今年後半は下がると考えられます。来年前半どうなるかは、今年度補正予算次第です。公共投資は、90年代半ばまで大幅に追加され、水準は高くなりましたが、その後、96年度から名目ベースでは緩やかに低下してきています。政府としては、景気回復の基盤が十分には強くなっていないと考えられる下で、急激な公的需要の減少を避ける姿勢を採っています。民間住宅投資は、一部、今後の住宅減税延長に関する論議の帰趨にもよりますが、今後仮に低下するにしても、大きく景気の足を引っ張ることにはならないように思います。低金利、地価の下落で、分譲住宅に値ごろ感が広がっていることもあります。輸出につきましては、円高の影響はあるでしょうが、順調な海外主要国の景気拡大を反映して、増加基調は続くと思われます。米国経済は、個人消費に若干減速の兆しも出てきていますが、設備投資を中心とした力強い拡大が続いています。様々な経済予測機関による世界経済全体の成長率見通しも上方に修正されてきています。
以上のように、我が国経済は設備投資が先導する回復過程に入り、個人消費もゆるやかな回復に向かいつつあるところです。公共投資は今年後半減少しそうですが、民間住宅投資は、年度の初め頃に考えられていたほどには下がらないように思われます。輸出も基調としては増加を続けそうです。民間の経済成長率予測の数字も上方に修正され、平均で今年度、来年度とも2%を若干上回るものになってきました。
ここで、最近の原油高の背景と日本経済への影響について簡単にコメントしたいと思います。昨年初めにバーレル10ドル前後であった原油(WTIあるいは北海ブレント)価格が今月に入って30ドル台後半に上昇しました。最近では、投機資金も入って原油市場が若干過熱気味になっていたようですが、このところの原油価格の上昇は、基本的には、OPECによる供給の絞り込みと、世界経済の回復による需要の拡大によるものと考えられます。また、短期的には、米国における原油在庫が低くなり過ぎていたことや、長期的には、OPECの世界の原油生産におけるシェアーが高まってきていたことなどが影響していると思われます。米国の戦略原油備蓄の一部が放出されることとなりましたし、他の諸国でも備蓄の取り崩しが検討されることになり、足許、原油高には一服感が出そうです。しかし、昨年に比べると大幅な原油高が続く可能性があります。
そうした場合、日本経済への影響はどのように考えたらよいでしょうか。これまでのところ、国内物価への影響は限定的です。こうした背景としては、まず第1に、円高がドルベースでの価格上昇を幾分緩和していることがあげられます。原油価格の推移を通関統計の円建て価格ベースでみますと、足許の原油価格は、82年第3四半期のピーク時と比べ3分の1程度のレベルにとどまっています。第2に、商品輸入に占める石油・石油製品の割合が低下し、第2次オイル・ショック時の40%を超える水準から足許では15%程度になっているという事情があります。第3に、製造業のエネルギー原単位(エネルギー消費量/付加価値額)も、統計の利用可能な97年度時点において、第1次オイルショックの発生した73年度時点と比較して6割程度のレベルにまで低下しています。第4に、国内の物価動向が、足許、横ばいから弱含みとなっている状況や、国内石油関連業界における規制緩和による競争激化なども、価格転嫁を難しくしていると考えられます。こうした状況は欧米とは異なります。以上のようなことから、原油価格の上昇が日本経済に及ぼす悪影響の程度はドルベースでの原油価格上昇が示唆するほどには大きくないのではないかと考えられます。ただ、アジア諸国経済や米国の株価などを経由した間接的な影響には注意が必要でしょう。また、交易条件(輸出物価/輸入物価)の悪化が企業収益にどのような影響をもたらすかなどにも、注視が必要と思います。
物価につきましては、原油価格の上昇で輸入物価が上昇してきていますが、国内物価は落ち着いています。卸売物価は前年比若干の上昇、消費者物価は若干の低下となっています。最近の消費者段階での物価の低下傾向は、需要の弱さによるものというより、技術革新や規制緩和、円高や国際競争の激化、また、流通合理化などの影響によるものと考えられます。最初にも言いましたように、需要の弱さが原因の物価下落であれば、企業収益の悪化や雇用・所得情勢の悪化を伴うはずです。現在は、経済全体としては、企業収益は大幅に改善してきていますし、雇用・所得情勢の悪化もほぼ止まり、若干なりとも改善し始めたところです。
一部に、GDPデフレーターに注目して、デフレ状況は悪化してきているとの見方があります。GDPデフレーターは、名目国内総生産を実質国内総生産に変換する時に使う国内総生産全体に対する物価指数のようなものですが、この前年比変化率が昨年第4四半期から今年に入ってマイナス幅を拡大させ、この第2四半期には−1.9%になりました。しかし、GDPデフレーターは、円高の影響を強く受けた輸出物価デフレーターの大幅低下を反映していますし、公務員賃金の低下を映した政府最終消費支出デフレーターの下落などの影響もあります。国内の需給状況をより良く反映した民需のデフレーターは特に民間最終消費デフレーターだと思われますが、この前年比変化率はマイナス幅を縮小させてきています。デフレ状況が強まっているとは言えないと思います。物価全体の評価としては、横ばいから若干弱含みといったところですし、弱含みの原因は需要の弱さというより供給サイドの変革を反映した面が強いと考えられます。
3.ゼロ金利政策解除時期尚早論
ここで、ゼロ金利政策解除に対する時期尚早論について触れてみたいと思います。政府ばかりでなく、財界や学界の一部に時期尚早論がありました。簡単に代表的な論点のいくつかを取り上げてみたいと思います。
まず、政府とは、景気の認識について若干の差があったかもしれません。しかし、財政政策と金融政策が反対の方向を向いているとの批判は当たらないと思います。企業部門が先導する景気回復局面が始まったとの認識は政府とも共有していました。認識に差があったとすれば、それは、主として民間設備投資と個人消費の先行きの強さについてであって、公共投資が年央以降減衰していった場合、ゼロ金利政策を解除しても、それを乗り越えて景気回復が持続できるかどうか、という点にあったと思います。その後、来年前半の公共投資の予想される落ち込みを回避すべく、今年度補正予算論議が行われているところです。日本銀行としては、ゼロ金利政策の解除後も超低金利によって景気支援を続けることを表明しております。財政政策も一段の景気刺激をねらっているわけではなく、公的需要の落ち込みを避けるとともに経済構造の改革を促進することで、景気の支援を指向しており、政策のスタンスが逆を向いているということではないと思います。
財界の一部には、当面、インフレ懸念がないどころか、物価は低下しているのに、なぜ金利引き上げを急ぐのか、という意見がありました。先ほど来ご説明してきましたように、足許の軟調な物価は、需要の弱さによるものというより、様々な供給サイドの変革によるところが大きいと思われ、「先行き需要の弱さによる物価低下圧力が十分小さくなった」と判断して、政策変更を実施いたしました。実際に物価が上昇し始めてから、あるいは、それが広く予想されるようになってから政策変更をしたのでは、短時日の内に金融再引き締めを行なわなければならないかもしれず、結局のところ、経済変動を大きくしてしまう惧れがあります。経済状況の変化に合わせて、金利を微調整して行くことで、政策に起因する経済の変動を小さくできるのではないかとの考えが背後にあります。
学界の一部には、ゼロ金利といっても物価の変化率がマイナスの下では実質金利はゼロではなく、景気の弱さを勘案すると、実質金利は高すぎるかもしれないとの見方があります。そこで、名目短期金利はゼロに維持するとともに、量的金融緩和こそが必要であるとの意見もあります。そうした観点からは、最近、マネー・サプライの伸び率が低下している下で、金利を引き上げるのは政策のあるべき姿に逆行していることになります。確かに、長い目で見ますと、物価はマネー・サプライによって決まると考えられます。ただ、短期的には両者の関係は安定的ではありません。特に、ここ数年はそうです。金融不安が高まって、流動性不安が起こったりした時、通貨に対する予備的動機からの保有が増えたり、そうした不安が薄れるに従って、減少したりしたようです。この間、景気の動向とマネー・サプライの動きは逆になった感があります。また、一般的には、最近、民間設備投資は企業のキャッシュフロー(減価償却費と税引利益の合計)の範囲内で行われており、銀行融資の増加に結びついておらず、従って、通貨の一部である預金の増加に結びついていません。さらに、企業ばかりでなく個人も過去の債務の返済を進めており、これも通貨伸び率を低める方向に働いています。マネー・サプライの動向は物価や景気の先行きに関する重要な情報を含むものであり、注意深く分析する必要はありますが、現在、マネー・サプライの伸び率が下がっているからといって、直ちにそれを高めなければならないという結論には必ずしもならないと思います。
最後に、学界や中央銀行関係者の一部で、最適政策金利を求める「テーラー・ルール」と呼ばれる考え方に基づいて、金利の引き上げは時期尚早であるとの意見がありました。この考え方は、少々技術的になりますが、経済の潜在成長率、GDPギャップ(潜在生産力と実際の生産水準の差)、目標とする物価変化率、そして、目標物価変化率と現実の物価変化率の差などによって、望ましい政策金利を探そうというものです。こうした考え方に基づいて、様々な仮定を置いて、実際に計算してみますと、望ましい政策金利はマイナスから若干のプラスになります。個人的には、今のところ、プラスの政策金利となるある計算(潜在成長率とGDPギャップを日銀の企業短期経済観測調査の生産設備・雇用判断DIなどを使って計測するもの)──今年、お会いした時、テーラー教授も興味を示されました──に現実妥当性を感じています。日本経済の潜在成長率に関する推計は0−2%の間にほぼ入ると思いますが、今年度の成長率はその上限あたりの推計値と等しいか、それを上回ると思われ、GDPギャップが縮小する可能性が強く、この意味でも、先行き需要の弱さによる物価低下圧力は十分小さくなったと言うことができるように思います。ただ、テーラー・ルールとの関連で言えば、GDPギャップのサイズが分からなければ、望ましい政策金利水準は分かりません。ところが、問題は、潜在成長率やGDPギャップについて多くの人が合意できる計算の方法が確立していないことです。また、GDPギャップは将来の物価変化率を決める重要な要因ですが、様々なその推計値と実際の物価変化率がなかなかマッチしません。これは、主として、潜在生産力の計測が難しいところからきています。結局のところ、テーラー・ルールに基づく望ましい金利についての試算は重要な参考とはなりますが、現在のところ、それだけで政策を決定するわけにはいかないと思います。
4.ゼロ金利政策解除後の状況
さて、今後の金融政策運営についてお話しさせていただく前に、ゼロ金利政策解除後の状況をざっと振り返ってみたいと思います。解除後ひと月とちょっとしか経っておりませんので、経済のマクロ面でどういった影響が出てきたかということをお話しすることはできません。そこで、ここでは、主として、市場動向を振り返ることにいたします。
一言で言いますと、これまでのところ、ゼロ金利政策の解除は市場では冷静に受けとめられてきたと思います。短期のマネー・マーケットでは、当初、金利が振れるといったこともありましたが、その後は日銀の適切なオペレーションもあって、落ち着いています。長期金利は、今月初めまで、景況感が強気化したり、財政悪化の懸念が強まったり、国債の格下げが懸念されたりしたことから、上昇し、10年物国債流通利回りが2%近くまで行きましたが、その後はそこから若干低下しました。それは、強気になった景況感が若干修正されたり、日銀による再利上げの思惑が後退したり、また、民間部門における資金需要の弱さが再確認されたりしたためです。長期債市場の反応は概ね冷静だったと思います。
株式市場の反応は債券市場以上に冷静なもので、8月末までは、景況感が強気化したり、米国のNASDAQ市場の上昇や外人買いもあって、株価はかえって上昇しました。しかし、その後、米国株式市場が調整局面に入ったことや、中間決算期末を控えた国内法人の売りやいくつかのテクニカルな要因もあって、最近の株価指数はゼロ金利政策の解除直前の水準近辺あるいは若干下回るところまで戻ってしまっています。今月に入ってからの軟調な株価に金利の上昇や円高もある程度は影響していたかもしれませんが、これまでのところは決定的な要因とは考えられていないと思います。
為替市場における円相場も、当初若干円安になった後、円高になりましたが、それも限られたものにとどまりました。以上のように、これまでのところ、市場はゼロ金利政策解除をかなり冷静に受け止め、混乱はほとんど起こらなかったと思いますし、こうした評価は多くの人に共有されていると思います。
先週末のG7会議直前に日米欧による為替市場での協調介入が実施されましたが、行き過ぎたユーロ安とその世界経済に対する懸念を共有したものです。ユーロが昨年誕生してから、為替相場はほぼ一貫して下げ続け、米ドルに対しては3割、円に対しては4割も下落しました。最近の欧州諸国はユーロ安と原油高によってインフレ率が上昇し、利上げの観測も強まっていましたが、大幅な金利の引き上げは欧州景気を抑制してしまう惧れがありました。一方、米国でも、ユーロ安・原油高が企業業績への圧迫要因となる惧れから株価下落の要因となってきていましたし、また、米国株価の下げが日本を含めた世界的な連鎖株安をもたらす兆しが見られました。ユーロ安をもたらしてきた要因は、現象面では、相対的に大きな対外直接投資や対外証券投資が主として米国に向かったことですが、その背後には、欧州経済における構造改革の遅れや、それと裏腹の関係になりますが、市場ダイナミズムの欠如による、米国との間の資本に対する期待収益率格差があると考えられています。ただ、今年に入ってから、ユーロ構成国全体としての経常収支は若干赤字にはなりましたが、直接投資収支や証券投資収支が悪化している訳でもありません。最近のユーロ安は行き過ぎではないかとの見方も強まっていたと思います。また、最近のユーロ安には、ユーロ為替レートの安定に対する当局のスタンスがはっきりしないとの見方が反映していた可能性がありますが、今回の協調介入により、こうした見方が修正され、為替相場の安定化に貢献することが期待されます。
ところで、ゼロ金利政策の解除後、金融の量的な面では、翌日物コール・レートが上昇することで、日銀当座預金が減り、マネタリー・ベース(現金と日銀当座預金の合計)の伸び率が下がりました。ゼロ金利政策によってコール・レートがほぼゼロに維持されていた下では、金融機関が金利なしで日銀に預ける当座預金を必要以上に持つことにはコストがかかりませんでしたが、コール・レートが0.25%に誘導されるようになりますと、必要以上に当座預金を持つことはなくなります。また、普通預金が金利面で相対的に魅力を失い(普通預金金利は0.05%から0.1%に上昇しましたが、上昇幅は0.05%にとどまりました)、法人預金の一部が銀行CP等に流れたりしたためもあって、M2+CDの伸び率が若干下がりました。ただ、広義流動性の前年比伸び率は3%台半ばで安定的に推移しています。金融市場では現在構造変化が起こっており、今後とも資金のシフトは様々な金融資産の間で起こることが考えられ、こうした下では、様々なマネタリー・アグリゲイト(通貨集計量)の動きを見ることが必要と思います。また、当面、相対的に狭義のマネー・サプライの伸び率は下がるかもしれませんが、先ほども申しました通り、金融市場を取り巻く様々な情勢を考慮して、その意味を考えることが必要かと思います。最後に、貸出金利の面では、短期プライム・レートが、これまでのところ、1.375%から1.5%に上がっていますが、上昇幅は限定的です。
5.今後の金融政策運営について
ここで、今後の金融政策運営についてお話ししたいと思います。ゼロ金利政策を続けておりました時は、「デフレ懸念の払拭が展望できるまで」その政策を維持することを表明してまいりました。このように、将来の金融政策スタンスについて何か約束するということは、以前の金融政策の運営の仕方からすると考えにくいものでした。しかし、そうすることで、金融政策の効果を強めることができるほか、政策変更に関する基準を明らかにすることで、市場との対話を図り、政策変更時のショックを和らげることができると考えられました。しかし、ゼロ金利政策を解除した現在、当然、同じ基準は使えなくなりました。そこで、どのような考え方で今後の金融政策を運営していくのか、また、それをどのように表現していくのか、ということが当面の課題となっております。
日本銀行法第2条は、「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする。」としています。そこで、日本銀行として、物価の安定をどうとらえるのか、そして、それをどう表現して行くのかということが問題となりますが、これに関しましては、現在、政策委員会としての基本的見解をまとめ、来月あたりまでに公表することになっております。今日のところは、個人的な見解を漠然とお話することになってしまうかもしれませんが、ご容赦たまわりたいと存じます。
金融政策運営上の指針として物価の安定をどう表現するか、ということにつきましては、来月公表することになります政策委員会の報告書に譲るとしまして、ここでは、なぜこうしたことが問題となってきたかの背景をご説明してみたいと思います。最近、金融政策を運営する上で、インフレーション・ターゲティングと呼ばれる方式を採用する中央銀行が増えてまいりました。英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった先進国や、アジアでは、韓国なども採用に踏み切りました。為替レートの減価や高いインフレ率を過去に経験した国が多いようです。もっとも、米国や欧州中央銀行は採用しておりませんし、こうした政策運営方式が世界の大勢になっているとは言えません。ただ、金融政策の目標として具体的なインフレ率を掲げて政策を運営することによって、金融政策に対する信認を高めるとともに、政策のアカウンタビリティー(説明責任)を向上させることができると考えられています。
物価は、物・サービスと貨幣の交換比率ですから、長い目で見れば、物価の動きは貨幣的現象です。いかに貨幣を供給するかは、短期的にはともかく中長期的には、中央銀行の責任ですから、中央銀行は物価動向に対して責任があります。望ましい中長期的な物価の変化率は、物価指数を使って表わす場合、その上方バイアスを考慮しなければなりませんので、若干のプラスになるという考えが有力です。また、金融政策は、景気の過熱に対処することはある程度確実性をもってできても、景気の後退に対処することは限界があると考えられます。特に、景気後退に対処する際、政策金利がゼロ以下にはできないといった制約があります。そこで、マイルドなインフレとマイルドなデフレとの間でどちらをより避けるべきかを選ぶ場合、マイルドなデフレということになると思います。これらのことから、中長期的には、日本銀行としては、若干プラスの物価指数変化率を目標にすべきである、ということになるかもしれません。また、そうした目標を掲げて政策運営を行う際、政策がクレディブルである(信用される)ためには、金利を引き下げる余地を含めて政策の自由度が確保されていなければなりません。我が国の現状では、その自由度は確保されているとは言い難いと思います。また、足許の物価が供給サイドの変革を反映して、横ばいないし弱含みになっている状況下で、そうした中長期的な物価の変化率目標を公表した場合、短期的にも手段を選ばずに達成することが求められる可能性もあります。それは、将来の経済変動を大きくしてしまう惧れがあると思います。ただ、こうした点について、政策委員会としての結論は出ておりません。
政策運営上の指針としての物価安定の目標に関する問題のほか、政策運営の透明性を向上させ、市場との対話を促進するために、日本銀行、あるいは、政策委員会が経済・物価の先行きについて持っている考え方をもっと分かりやすいかたちで明らかにできないか、といった要請が強まってまいりました。現在でも、月初の金融政策決定会合で、経済金融情勢に関する「基本的見解」として、委員会の現状認識および近い将来の動向についての見方を公表しております。市場その他からの要請は、物価動向などについての考え方をより具体的に数字などで表現できないか、ということだと思います。個人的には、その方向で考えたいと思っております。
最後に、市場との対話について一言申し上げたいと思います。日本銀行としては、これまでも、市場との対話を促進しようとしてまいりました。しかし、ゼロ金利政策を解除する際、それが十分満足にできたかと言えば、いくつかの反省点があったと思います。一部の方々からは、解除の直前において日銀が行ったことは、対話ではなく通告だったとの批判も頂戴いたしました。政府との関係にしましても、必ずしも満足の行くものではなかったかもしれません。今後は、これまでにも増して政府、関係機関との意思疎通を図り、市場との対話もこれまでの反省に立って改善すべきところは改善しなければならないと考えております。
以上