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最近の日本経済と金融政策

日本経済研究センターにおける植田和男審議委員講演要旨1

  1. 本稿は、2002年5月15日・日本経済研究センターにおける植田和男審議委員による講演の内容を基に加筆修正したものである。

2002年5月16日
日本銀行

[目次]

  1. 1.国内外の経済情勢
    1. (1)日本経済の先行きに関するメインシナリオ
    2. (2)リスク要因—米国経済の動向
    3. (3)リスク要因—東アジア経済
    4. (4)リスク要因—日本の景気
  2. 2.日本経済の構造問題
  3. 3.構造問題の下での金融政策
    1. (1)マネタリズムの主張と1990年代後半の現実
    2. (2)1999年以降の金融政策運営
  4. 4.インフレーション・ターゲティングとの関係
  5. 5.今後の金融政策オプション

1.国内外の経済情勢

(1)日本経済の先行きに関するメインシナリオ

 まず、日本経済の先行きに関するメインシナリオについて確認しておきたい。現在の局面は、IT関連を中心に製造業の在庫調整が米国や東アジアを中心に一巡し、日本もこうしたフェーズに入ってきている。これに伴い、米国・東アジアを中心に貿易・生産の反転が始まり、つれて日本の輸出も急回復している。この結果、日本の生産にも漸く底打ち気配が出てきたという状況かと思う。しかし、こうした明るい兆しが見えているのは製造業であり、雇用・所得環境の悪化が続いているため、消費は弱く、設備投資にも回復の兆しが見えない。非製造業の活動水準も低下を続けている状態かと思う。

 先行きについては、設備投資の回復等によって米国経済の持続的な景気回復の見通しが強まれば、日本の内需も、少し遅れてではあるが、年度後半以降には上昇に転ずるのではないかと思われる。一方、物価をみるとデフレの状況にあるが、足許のこうした景気情勢を考慮すれば、デフレスパイラルに陥る可能性は当面は非常に低いように思う。ただし、直ちにプラスのインフレ率に復帰する可能性も低く、引続き緩やかなデフレが続くことになろう。

 以上のようなメインシナリオにはいろいろなリスクもある。日本銀行が先月末に公表した「経済・物価の将来展望とリスク評価」の中でもいくつかのリスクを指摘しているが、次に、これらの中からいくつかを取り上げて議論することとしたい。

(2)リスク要因—米国経済の動向

 まず、米国経済の動向である。米国経済は、昨年、急速かつ過去にないパターンでの調整局面を経験した。図1は今回を含むこれまでの景気後退局面ごとに、主要な経済指標がどのように推移したかを示したものである。この図から明らかなように、設備投資や在庫投資は従来にないような急速な調整をみたほか、生産も比較的強めの調整が行われた。他方、良く知られているように、消費と住宅投資は、景気後退期にも拘らず驚くべき強さを発揮した。これらのコンポーネントは、設備投資や在庫投資の急速な調整に伴うマイナスの効果に対して、米国経済をいわば下支えしたといえよう。現在は、在庫投資が反転している状況であり、2002年第1四半期のGDPもこれを主因に高い成長率を記録した。

 今次局面のもう一つの特徴は労働生産性の高い伸びである。図2の上のグラフは、図1と同様に過去の景気後退局面との比較で労働生産性の推移を示したものであるが、昨年後半以降、労働生産性が非常に高い伸び率となっていることがわかる。エコノミストの間では、「労働生産性がこれほど伸びれば、企業収益や設備投資が伸びるはずである」との発想から、本年の米国経済の成長率に関する予想がどんどん引き上げられてきた。これをコンセンサス・フォーキャストでみると、昨年12月時点での1.0%から、先頃発表された本年4月時点の2.8%まで大きく上方修正されている。

 しかし、米国経済に対する見方は楽観一色ではない。例えば、株価は年初にかけて上昇した後、方向性のあまりはっきりしない展開を続けている。また、企業のトップからも、米国経済が順調に回復しているという趣旨の発言はあまり聞かれない。さらに、半導体市況もボトムの1ドル前後から、本年春には、米国経済の先行きに対する楽観的な見方を反映するかのように4ドル強まで上昇したが、その後は、弱気な見方が広がるのに合わせるようにじりじりと下落し、現在は2ドル弱となっている。労働生産性の伸びを反映してユニット・レーバー・コストが大幅に低下している一方、最終需要段階での物価は下落しているわけではないことを考えると、企業収益は増加し始めているはずである。図2の下のグラフにもその点は現れている。それでも株価が冴えない動きをしている背景には、株式市場の参加者が企業収益に対して強めの期待を持っていたのに、まだそこまでは実現していないことがあるかと思われる。また、米国の会計制度に対する不透明感を惹起するような不幸な事件がいくつか発生したため、公表された企業収益に対する不信感が影響を与えている面もあるかもしれない。

 すなわち、メインシナリオとしては、徐々に企業収益が増加し、それに伴って経済の先行きに対する不透明感も低下することで設備投資の増加等に—若干のラグはあるかもしれないが—繋がっていくというものであろうが、投資家や企業経営者が心配しているような事態が重なって、こうしたシナリオが実現しないリスクもなくなってはいないというところであろう。

(3)リスク要因—東アジア経済

 東アジア経済の動向についても簡単に触れておきたい。米国経済の上昇とほぼ同時に、IT技術に関連する生産のウエイトが高い国から先に急速な回復を見せていることが、貿易や生産のデータから確認できる。先行きについては、やはり、米国経済の先行きに依存している面が大きい。

 米国経済が好調をそんなに持続しなくても、東アジア諸国だけで経済が自律的にうまく回っていくことがあり得るかどうかは興味深い問題である。中国や韓国の内需は実際に強い状態を維持している。少し先を見通して、東アジア地域内での自律的な拡大があり得るかどうかを考えてみると、中国で内陸部から沿岸部へと大量の人口移動が生じており、今後もこうした動きは継続することが見込まれるが、これが大きな需要の増大をもたらすかどうかが一つのポイントであろう。丁度、日本で1950~60年代に生じた農村部から都市部への人口移動による内需拡大と同様な議論である。あるいは、東アジアの世界の生産基地としての性格に伴う設備投資が、各国間でプラスの相互作用を生みつつ伸びていくことがあるかどうかもポイントであろう。しかし、中国経済は、現時点ではアジア全体を牽引できるほどの規模には至っていないとみられるほか、東アジアのもう一つの核である日本経済がまだ低迷していることからみて、今のところは、東アジア地域のみで自律的な経済の動きが生ずる可能性は低いものと考えておくべきかと思う。

(4)リスク要因—日本の景気

 振り返って日本経済を見ると、輸出は特に東アジア向けの増加を主因に急速に回復しているし、生産も底を打ったと言えるかどうかという局面にある。経済産業省の統計によれば、2002年第1四半期の生産の伸びは対前期比0.5%であり、第2四半期の予測は対前期比4.1%となっている。第2四半期は、ここまで高水準の伸びにならないとしても、そこそこのプラスにはなろうと思う。さらに、やや驚くべきことであるが、製造業では生産の底打ち気配に対応して、新規求人件数といった雇用のデータが改善を始めている。雇用のデータは過去には遅行指標であったが、おそらくは雇用形態の変化等を映じて、今次局面では景気に対する反応がより敏感になっている部分があるように思う。

 ただし、こうした改善の動きがみられるのは今のところ製造業に限られているし、雇用者所得が減少を続ける中で個人消費に目立った強さは見られない。消費関連のデータには不安定性があるため確定的なことを言うのは難しいが、実質所得の下落ペースに比べれば個人消費の下落ペースは緩やかであることは事実であろう。しかし、これが事実とすれば、夏季賞与の頃までは弱い動きを続けると予想される雇用者所得が、今後の個人消費にどのような影響を与えるかという新たな問題を提起することとなる。加えて、今週初に発表された機械受注統計を見ても、設備指標の先行きはまだ弱いということになる。

2.日本経済の構造問題

 日本経済においては、製造業で現在見られる回復の動きが次第に全体に広がっていくかもしれないが、こうした景気拡大局面で重石となってきそうな問題がいくつか存在する。こうした問題は、1999年~2000年の景気回復局面においても回復力を弱める方向に働き、期待された程の景気拡大をもたらさなかったと言える。

 例えば、法人企業統計季報によって労働分配率をみると、最近では非常に高い水準になっているため、景気循環面からはもとより構造面からみても伸びを抑えようとする力が働くと考えられる。なお、この指標については、どういうデータを用いて作成するかによって趨勢的な動きが異なるといった指摘もなされているため慎重な解釈が必要であろうが、いずれにしても90年代半ばに大きく上昇したため、下落させようとする力が暫く働くであろうということは言えるように思う。この結果、賃金の伸びが抑制され、消費にはマイナスの力が働き続けることが予想される。

 同時に、日本経済にはさまざまな構造変化が生じている。ユニクロに代表される新たなビジネスモデルの登場は全体としてみれば好ましい現象ではあるが、国内の既存の小売業者等に対しては当面マイナスの影響を及ぼすことも否定しがたい。また、製造業の海外生産シフトの動きが続く下では、仮にある程度景気が回復したとしても、新たな設備投資が従来以上に海外で行われてしまうリスクもあるように思う。

 より重要なポイントとして、1980年代までは景気に対して比較的敏感に反応していた非製造業の設備投資が、景気が回復してもバランスシート問題のためにあまり伸びないことによって、90年代の景気回復局面と同様に、今次局面でも景気回復力を弱めてしまうことが懸念される。図3は、業種と企業規模に分けて自己資本比率を計算したものであるが、ここでは土地や株式のキャピタルゲインやロスを加味している。図から明らかなように、「製造業・大企業」では、バブル崩壊にも拘らず実質自己資本比率は殆ど低下していないのに対し、「非製造業・中堅中小企業」では、おそらく株式や土地の価値下落を主因に実質自己資本比率が大きく低下している。従って、現在、「非製造業・中堅中小企業」は銀行にとって貸しにくい相手となっており、借り手自身も体力の低下のために設備投資に踏み切れない状況が続いてきたものと思われる。法人企業統計季報を用いて、図3と同様の業種・企業規模に分けて設備投資動向をみると(図4)、1999~2000年の局面においては、「製造業・大企業」では少し増加しているのに対し、「非製造業・中堅中小企業」では殆ど増加していない。こうしたグラフにも、バランスシート問題に苦しむ非製造業の姿とその設備投資への影響をご覧いただけるかと思う。

 日本銀行のスタッフによる最新の実証分析結果を紹介したい(図5)。この分析では、おおまかに言えば「大企業」の設備投資を説明するために、資本コストやキャッシュフローといった通常の変数に加えて、バランスシート問題を表す変数を加えている。しかも、バランスシート問題は借り手と貸し手の双方に存在すると考えられるため、借り手のバランスシートの傷み方と貸し手(メインバンク)のバランスシートの傷み方のそれぞれを説明変数として入れて、これらが設備投資を決定する重要な要因であるかどうかを分析している。結果をみると、まず、借り手のバランスシート問題が設備投資に影響を与えたという証拠がかなりはっきりと見出された。他方、貸し手のバランスシート問題と設備投資との関係については—ここ10年来、議論され続けてきた問題であるが—、借り手でも資本市場にアクセスできる場合には、ここでのサンプルでは影響があまり大きく現れなかった。しかし、資本市場へのアクセスがあまりない(起債実績がない)借り手においては、貸し手のバランスシートが傷んでいることが—他の説明要因をコントロールした後でも—借り手の設備投資に悪影響を与えたことが示された。先に述べたように、ここでの分析は「大企業」を対象としているので、仮に中堅中小企業を対象とする分析が可能であったとすると、これらの借り手は資本市場へのアクセスがおそらく限られていると考えられるため、貸し手(銀行)のバランスシートが悪化したことの設備投資への悪影響はかなりあったという結論が得られると予想される。バランスシート問題に関する通常の議論においては、「銀行のバランスシートが悪化したことが企業の設備投資に悪影響を及ぼしてきた」との主張がしばしばなされるが、もう少し正確に言えば、「借り手の原因と貸し手の原因の双方が設備投資に悪影響を与えてきた」ということであろう。

 このように、日本経済の当面の回復は製造業を中心とするものである一方、バランスシート問題のかなりの部分は非製造業に集中しているので、景気回復が始まっても、それ自体で構造問題のマイナスの影響がなくなっていくとは期待しにくい状況にある。

3.構造問題の下での金融政策

(1)マネタリズムの主張と1990年代後半の現実

 次に、こうした構造問題が存在する下での金融政策運営について述べてみたい。「インフレやデフレは貨幣的現象である」というマネタリズムの考え方を単純に当てはめてみても、日本の経験は上手く説明できない。実際に、マネタリーベースの伸びは非常に高い状況が続いている一方、インフレどころか緩やかなデフレが続いているわけである。この2~3年、マネーの伸びを増やせばデフレは止まるであろうと主張した学者は多く、もう何年か経てば「主張はやはり正しかった」という局面も来るかもしれないが、これまでのところは、こうした主張は正しくなかったと言える。図6はマネタリーベースと消費者物価指数の双方の伸び率を示している。マネタリーベースの対前年比伸び率は、4半期ベースでは20%を超えているし、足許の月次ベースでは30%を超える非常に高い水準になっている。20~30%という伸び率を過去に遡ってみると、70年代初頭のいわゆる過剰流動性の時期に至る。当時はこの言葉通りにインフレ率が20%を超える水準に達したが、現在は明らかにそうではない。

 図7には、いわゆるマーシャルのK−ここでは、マネタリーベースを名目GDPで割ったもの—を灰色の線で示している。この指標は90年代半ばまでは緩やかな上昇トレンドの周りを上下しているように見えるが、これはマネーと名目GDPの動きにそれほど大きな乖離が生じなかったことを意味する。これに対して、1995年頃から現在にかけての動きをみると、過去のトレンドから大幅に上方に乖離している。これは、多少乱暴に言えば「過剰流動性」が蓄積されてきているということであり、マネタリストがこの図だけを見れば、「日本経済にはハイパーインフレーションのリスクがある」と指摘するであろう。しかも、こうした状況はこの半年とか1年といった期間ではなく5~6年に亘って続いているが、インフレーションの気配はない。

 なぜ、こうしたマネタリーベースの伸びにも拘らずインフレ率が上昇しないのかと言うことについてはいくつか要因があるが、そのうち2つは図7に示されている。1995年以降の時期について、図7の残りの2つの線に注目していただきたい。一つ目はコールO/Nレートであり、1995年後半以降ほぼゼロとなり、1999年初め以降はほぼ完全にゼロとなっている。通常の金融緩和期には金利を下げて支出を刺激する形で金融政策の効果が発揮されるが、金利をゼロ以下に下げられないために景気回復や物価上昇を引き起こす力は弱いという、いわゆる「流動性の罠」に陥っているということである。二つ目は銀行貸出の対前年比増加率であり、これもゼロまたはマイナスで推移している。先に述べたように、借り手と貸し手のバランスシート問題のために設備投資と貸出が伸びない時期に当たっており、金利を下げても景気刺激の力が弱かったわけである。

 マネタリーベースが伸びても景気回復やインフレ率上昇をもたらさなかったもう一つの理由について、M=kPYという恒等式を用いて説明したい。ここでマーシャルのkが安定していれば、マネタリーベース(M)と名目GDP(PY)には安定的な関係が成り立つが、kが不安定化するとマネタリーベースを増やしても名目GDPは増えるとは限らない。図7より明らかなように、「kは1995年頃以降は上方に不安定に動いてきたのであるから、Mを増やしても名目GDPは増えなかった」と言うこともできるわけである。このようにkが不安定化した理由としては色々なものが考えられるが、おそらく最大のものは、金融不安等によって流動性需要が増大したことかと思う。この結果、MとPYの比例関係が失われたのである。すなわち、マネタリズムの主張が妥当するための大前提はkが安定していることであるが、それがこの時期は崩れていたのである。

(2)1999年以降の金融政策運営

 単純に「マネーを増やせばよい」という次元を超えて、日本銀行は、さまざまな工夫をしながら金融政策を運営してきた。まず、いわゆる「流動性の罠」の下でどのような対応を採ってきたかという点から説明したい。こうした状況での対応の一番目は、短期金利がゼロに近いといっても完全にゼロではないので、できるだけ金利を下げたらよいということである。そのためにはマネタリーベースの供給を増やす必要があり、実際に我々もそうしてきた。その中で、マネタリーベースを増やすこと自体が、金利が下がること以外の経路で経済にプラスの影響を与えるとの主張がみられた。日本銀行も、「こうした効果があれば、儲け物である」と考え、こうした効果にも期待した。二番目は、短期金利がほぼゼロになってしまうと現在の短期金利を下げる余地は無くなるが、それでも金融緩和効果を強くしたければ、「将来の短期金利をゼロにする」あるいは「将来も短期金利ゼロに対応するまでマネタリーベースを増やす」ことを現在約束するという手法が考えられる。これは、しばしば「時間軸効果」と呼ばれており、日本銀行がこの数年実施してきたものである。この政策を実施すると、予想短期金利が低下するため、予想短期金利の平均である現在の中長期金利にも低下圧力がかかり、ここから若干の景気刺激効果が出よう。実際の手段にはいろいろなやり方があり、例えば、「ゼロ金利を続ける」とか「マネタリーベースをたくさん供給することを続ける」といったことを約束しても良いし、「こうした約束をインフレになるまで続ける」という形でインフレーション・ターゲティング的なものと組み合わせても良い。三番目はその他の手段であり、日本銀行はオペレーションの担保として利用できる手段を拡張してきた。

 こうした考え方を日本銀行の実際の金融政策に即してみていくと、まず1999年~2000年のいわゆる「ゼロ金利政策」の時期には、コールO/Nレートを当時は下限と考えられていた0.01~0.02%まで下げたほか、「時間軸効果」としてこうした政策を「デフレ懸念払拭まで」継続すると約束した。同時にオペレーションの担保の範囲も若干拡大した。昨年3月以降のいわゆる「量的緩和策」においても、マネーの量を増やすことでコールO/Nレートをほぼゼロにしたほか、こうした枠組みを「消費者物価指数の対前年比上昇率が安定的にゼロを超えるまで」続けるという形で、前回に比べてより具体的という意味で強い約束を行った。こうした政策を評価してみると、まず、金融資本市場にはある程度の効果があったように思う。例えば、コールO/Nレートを始めとする短期金利のみならず、国債市場で中期金利も低下したし、長期金利も—目立って下落したわけではないが—安定的に推移した。また、局面によっては株価が上昇したり、その他債券市場等でリスク・プレミアムが縮小するといった効果もみられた。しかし、先に見たように、銀行貸出は増加しなかったし、その裏側で地価は低下を続けた。さらに、金融緩和が総需要に目立った好影響を与えたということも主張しにくいと思う。

 技術的な議論になるが、昨年3月以来のいわゆる「量的緩和策」の効果について、いわゆる「ゼロ金利政策」と比較しつつ評価してみたい。第一に、両者の違いは金利水準に現れた。すなわち、「ゼロ金利政策」の下では0.01~0.02%が短期金利の下限と考えられていたが、「量的緩和策」の下で一段とマネタリーベースの量を増やした結果、短期金利が0.001%まで低下しうることがわかった。これはコールO/Nレートだけに当てはまることではなく、局面によっては1年物TBレートも同水準まで低下した。もちろん、両者の差にどのような意味があるかは別の問題ではある。第二に、マネーの量を増やすことが、金利低下以外の経路を通じて、それ自体で経済にプラスの影響をもたらしたかどうかという点については、これまでのところは確かめられていない。ただ、この点は、効果の有無いずれの結論についても、実証的に示すことが難しいのは事実である。第三に、現在の「量的緩和策」はある意味ではインフレーション・ターゲティング的な性格を含んでいるため、インフレーション・ターゲティング論者が主張するように期待インフレ率が反応しても良いはずであるが、こうした兆候は見られない。第四に、日本銀行の当座預金に対する需要関数は予想以上に上下にシフトし、その結果、現在の「量的緩和策」の運営を難しくした。例えば、3月、6月や9月の末に需要の季節的変動があることはわかっていたが、昨年9月11日の事件によって突発的に需要が変動するという事態もあったし、金融システム不安を背景に徐々に需要が高まるという状況や、今年の4月以降、一部の金融機関のシステム障害が発生したことによる流動性不安の結果として需要が高まるという状況もあった。さらに、短期金利がここまで低下してくると、市場で資金を運用しても意味がないと考える金融機関が増加するが、そういう金融機関に入った資金は市場に出て来なくなった。このため、市場で資金調達をしようとする金融機関に対して日本銀行が資金供給を行わなければならないという状況が生じ、この結果、流動性需要が増大したかのように見えるという事態も発生した。これらの要因による資金需要の増大に、日本銀行はマネタリーベースの供給を増やすことで対応してきた。これを行わなければ、一般に考えられている以上に大幅な短期金利の急騰が種々の局面で発生していたかと思う。この面からみれば、日本銀行の金融政策運営においては、緩やかながら金利目標も頭の中にあったと言うこともできる。なお、このような当座預金に対する需要の変動に直面した際に、そのうちどれだけが長期的に続くものなのかを見極めることは難しいし、金融緩和を続けていく中で、目標とする当座預金の量を減らすという決断はしにくい。従って、いわゆる「量的緩和策」の下では、こうした様々な制約を考慮した結果、目標とする当座預金の量自体を頻繁に変更することはせず、いわゆる「なお書き」部分での対応を行ってきたわけである。

 不良債権問題が金融緩和効果を弱めてきたことは既に議論した通りであるので、ここでは簡単に図8で確認したい。これは、非製造業・中堅中小企業について、貸出の伸び率と貸出金利の関係を示している。グラフをみると、1990年以前のデータは大まかに右下がりの線上に乗っており、金利が下がれば貸出が増加する関係が存在したことを示している。つまり、このセクターは、金融緩和期に貸出が増加し、設備投資が増加した(因みに、他のセクターではこれほど明確な関係は見られない)。しかし、こうしたパターンは1990年代以降に消えてしまっている。すなわち、かつては金融緩和を行うとこのセクターから良い動きが始まったが、不良債権問題等のためにそういう動きが非常に弱くなり、金融政策の効果が小さくなったのである。

 日本銀行による資金供給の効果は、以上の議論を踏まえると次の2つに纏めることができる。第一には、金融不安等によって流動性需要が増大した際に、それに見合った流動性供給を行った。もしこれを行わなければ、金利が暴騰するとか、必要な資金が確保できない主体が出てくるといった経路を通じて、金融不安は一層深刻になり、最終的には一層深刻なデフレに繋がっていたであろう。日本銀行の流動性供給は、こうした事態の発生を抑止してきたという意味で大きなプラスの効果を持った。第二に、日本銀行は、金融不安等による流動性需要の増大を上回る流動性供給の増大を行ってきた。その一つの証拠は金利の低下が実現したことである。しかし、この面のもたらした効果については、金融資本市場に時々好影響が現れたということ以上に、景気や物価に対してはっきりした形でプラスの影響を及ぼしたとは今のところは残念ながら言えず、緩やかながらデフレが継続する状況となっている。

4.インフレーション・ターゲティングとの関係

 既に触れたように、現在の金融政策運営のスタンスはある程度はインフレーション・ターゲティング的である。すなわち、消費者物価指数の上昇率が安定的にゼロ以上になるまで潤沢な資金供給を行うことを約束しているので、現在の政策スタンスが継続される期間の長さをインフレ率の関数にしているという意味でインフレーション・ターゲティング的である。

 そこで、仮に、インフレーション・ターゲティングの性格を一層強めたいというのであれば、Y年までにX%のインフレ率を達成することを目標とし、その達成を約束するということになろう。これを現在の政策スタンスと比較してみると、現在のスタンスにおいてもX%はインプリシットな意味でゼロまたはゼロ以上であることを指摘しておきたい。「X%は丁度ゼロであるはず」との指摘もしばしばみられるが、現在の政策スタンスの下では、インフレ率が0%になる時は現在の超緩和政策が解除される時であることに注意する必要がある。その頃から金利は上昇を開始するかもしれないが、実質金利でみれば金融は依然として大幅に緩和された状態にあるため、これ以降もインフレ率は上昇すると思われるし、日本銀行はそれを容認していると言える。すなわち、中長期の目標インフレ率があるとすれば、それはゼロよりは少し上にあるということを意味している。従って、「日本銀行の金融緩和策のインパクトを強めるためには、目標インフレ率を1~2%に引き上げるべき」との主張に沿ってそれを実行したとしても、その意味は乏しいということになる。他方、「3%あるいは5%の目標インフレ率を掲げるべき」との主張に対しては、反対される方も多いように思う。次にY年を具体的に明示することに関しては、実際に達成するための手段が十分存在するのであれば、こうした約束が人々の期待に強い影響を与えることとなる。しかし、これまで見てきた通り、達成の手段が限られている下では、おそらくY年までという目標は信認されないだけであろうと言わざるを得ない。

 これに関連して、日本銀行の説明には矛盾があるのではないかとの指摘がなされることがある。すなわち、当面はデフレ基調が続くので、場合によっては財政支出を行って物価を上げるような状況にしても良いといった趣旨の発言を行う一方で、長期国債買いオペを無秩序に増やすと、財政規律喪失懸念によるインフレ期待の上昇が長期金利を上昇させることとなるとの発言も行っており、相互に矛盾しているように見えるということである。ここでは、これらが必ずしも相互に矛盾してはいないことを説明してみたい。ポイントは、例えば、金融市場で長期債を売買する投資家のインフレ期待は比較的複雑なロジックによって形成されるという点と、こうした投資家と一般の人々の間でインフレ期待が異なっている可能性があるという点にある。10年物国債を売買する投資家を考えた場合、今後最初の数年間(これをX年とする)は、「流動性の罠」の状態に近いから、インフレ率はあまり上昇しないと考えているであろう(この期間の期待インフレ率の平均をπ1とする)。しかし、残りの(10—X)年については、インフレ率もそこそこ上昇すると考えているであろう(この期間の期待インフレ率の平均をπ2とする)。ここで仮に、(A)10年後あるいはその先まで続く期間に亘る財政規律喪失を連想させるような金融政策が実行されそうになると、後半の期間の期待インフレ率(π2)が上昇するかもしれないし、そのリスクが意識され、リスクプレミアムが上昇するかもしれない。これらは、いずれにしても現在の長期金利に対する上昇圧力をもたらすことになる。しかも、インフレ期待の上昇は主として(π2)に現れるので、比較的短期(例えば向こうX年以内)の期待インフレ率に反応する家計の支出行動等にはプラスの影響を与えない可能性がある。総合してみると、取り敢えずの効果はデフレ的であるという可能性が導かれる。他方、仮に、(B)X年までの期間についてデフレ圧力をある程度緩和するための財政政策を行う一方、X年以降はこうしたことが続かないような措置を講じたりアナウンスメントを行って信認を得るということであれば、長期金利は—景気回復に伴って多少は上昇するかもしれないが—あまり大きく上昇することなく、景気刺激効果を得ることができるかもしれない。

 これらの議論は、長期国債買いオペを増加させるべきか否かにも関係している。すなわち、国債買いオペの増額によって(A)のような連想が広がってしまうと、マイナスの影響が出てくるかもしれない一方、そうならないように上手くコントロールしながら買いオペを増やすのであれば良い影響をもたらすことができるかもしれない。ただし、後者を実現することはそう簡単ではないことも申し上げておきたい。

5.今後の金融政策オプション

 日本銀行が今後採りうる政策オプションについても、しばしばご質問を受けるところであるが、一言で言えば「いろいろなメニューはあるが、どれも実行は容易ではない」ということであろう。国債買いオペを大幅に増やすことの難しさについては、まさに今議論したとおりである。その他の資産の購入についても、いろいろと頭の中で考えることはできるが、種々の難点がある。

 金融政策もいろいろと努力してはいるが、その利き方は弱いので、不良債権問題の解決が強く期待されるところである。これに対して、「不良債権問題はデフレが止まらないと解決しないので、金融政策でまずデフレを止めることが先決」との指摘がなされることも多い。確かに、デフレ率が現在より小さい、あるいは小幅のインフレの状態にあるとすれば、不良債権処理はより楽であろう。しかし、広く知られているように、不良債権は地価の下落によって増加していった。図9は、過去約20年間の地価と消費者物価指数の上昇率を示しており、一目瞭然であるが両者の間に殆ど関係はない。地価は過去の上がりすぎを調整する形で下落しているのであって、仮に1990年代の消費者物価指数の上昇率が実績より1%程度高かったとしても、地価の大幅な調整は不可避であり、従って大量の不良債権が発生していたことに変わりはないであろう。日本銀行は金融政策を通じて一般物価水準のデフレが止まるよう努力するが、不良債権問題については、金融政策とは独立に解決のための努力を続けていただくことが必要である。不良債権については、時間の関係で詳しく議論できないが、例えば、金融機関から市場への売却を促進することがいろいろな好影響を生むことが期待できる。

 以上述べてきたように、現在の日本経済にはさまざまな構造問題がある中で、どのようにして、若干のデフレを解消しつつ、構造問題も解決の方向にもって行くかという課題が存在するわけであるが、いろいろな政策を上手に使い、また協調して対応していくほかにはないと思っている。

以上