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持続的な成長軌道への復帰に向けて
2003年2月25日・経済倶楽部における速水総裁講演要旨
2003年 2月25日
日本銀行
目次
はじめに
日本銀行の速水でございます。本日はこの席でお話しする機会を頂いたことに、心から感謝いたします。
この講演は、私にとって日本銀行総裁としての最後の講演となります。私が5年前に総裁に就任した際には、様々な課題を前にして、身の引き締まる思いをしたことを今も鮮明に覚えています。まず日本経済にとっては、「持続的な成長軌道への復帰」と「金融システムの建て直し」のふたつが最大の課題でありました。また、日本銀行としては、私の就任とほぼ同時に施行された新日銀法の理念に沿って、新しい「日銀丸」をどのように舵取りしていくかという点も大きな課題でありました。
本日は、私の任期中に取り組んできた、これらの課題のうち、主として日本経済を持続的な成長軌道に戻すための金融政策面の対応についてお話ししたいと思います。また、同時に金融政策運営とも密接に関係する金融市場の整備と新日銀法のもとでの透明性向上に向けた努力についても簡単に触れてみたいと思っています。
1.日本経済の現状
日本の景気の現状
それでは、まず最初に、日本経済の現状についての日本銀行の見方からご説明したいと思います。
わが国の景気は、先行き不透明感が強い中で、横這いの動きを続けています。
これまでの回復に向けた動きの牽引役であった輸出と生産については、昨年後半以降、その増勢が鈍化しており、横這い圏内で推移しています。
こうした中で、国内最終需要については、設備投資は、これまでのリストラ努力も映じた企業収益の改善が下支えに作用するとみられますが、海外経済を巡る不透明感の強さなどを勘案すると、当面、はっきりとした回復に転じる可能性は低いと考えられます。また、個人消費については、厳しい雇用・所得環境のもとで、当面、弱めの動きを続ける可能性が高いと思います。
景気の先行きについては、本年の海外経済が緩やかな回復を辿るとの見方が一般的である中で、いずれは輸出の増勢が強まり、生産が増加基調に復することを通じて前向きの循環が始まるという基本シナリオを維持することが出来ると思います。
ただ、一方で、様々な観点からみて、こうした基本シナリオに対する不確実性が高まっていることは事実であり、十分注意してみていく必要があると思っています。
地政学的リスク
景気の先行きについて、目の前の大きなリスクは、イラク情勢を中心とした地政学的なリスクだと思います。この点は、世界中で共通に認識されている大きなリスクです。
もし仮に対イラク攻撃が発生したとして、その影響について判断を下すのは容易なことではありませんが、湾岸戦争の際の経験なども踏まえると、世界経済へ影響が及ぶルートとしては、主として、(1)原油価格高騰、(2)経済主体のマインド悪化、(3)株価や為替レートなどの金融市場の不安定化といった3つのルートが考えられます。
こうしたルートを念頭に考えてみると、仮にイラクにおける紛争が極めて短期間で終結するとすれば、世界経済全体に対する影響は比較的軽微なものに止まるのではないかと思います。
湾岸戦争時には、イラク軍のクウェート侵攻に伴って原油価格上昇と株価の下落が発生しましたが、湾岸戦争の開始とともに早期終結期待が広がり、ともに市況は反転しました。今回の局面では、原油価格などは昨年末から上昇してきており、既にかなりの程度は短期終結シナリオを織り込んだ水準になっていると言われています。
そうはいっても、楽観できない要素があるのも事実です。株価については、どこまで戦争のシナリオを織り込んでいるのか今ひとつ明らかでない動きを続けています。また、経済主体のマインドについては、とくに米国の消費者のマインドを示す指数が昨年央から後退を続けており、戦争の帰趨如何によってマインドがどのように変化するのか、気になるところです。
仮にイラクにおける紛争が長期化したり、地域的な広がりをみせてしまうような展開になった場合は、経済面の影響に限ってみても、より警戒が必要となることは言うまでもありません。原油価格の高止まりや一段の高騰を招き、世界経済への下押し要因として作用する可能性が高いと思います。
また、世界経済の牽引役として期待される米国経済は、企業の設備投資指標に今ひとつ動意がみられない中で、多額の債務を負いつつも消費者の底固い支出態度が緩やかな回復を支えている状況です。こうしたもとで、紛争長期化等に伴い消費者マインドがさらに悪化するような場合には、米国経済へのマイナス・インパクトを通じて、海外経済の緩やかな回復というシナリオ自体が崩れる可能性もなしとしません。
不良債権処理と企業金融
一方、国内面でのリスクに目を転じますと、金融機関の不良債権処理がどのように進められ、それが株価や企業金融、ひいては実体経済にどのような影響を及ぼすかについて注視しています。この点は、とくに期末を控えた時期であるだけに一層注意が必要です。
不良債権処理問題を巡る情勢をみると、昨年末からこれまでの間、主要行の資本増強策が相次いで発表されましたが、それらについては、銀行債の対国債スプレッドも縮小をみるなど、市場でも一定の評価を得ているように窺われます。ただ、その一方で、今回の資本増強策が銀行の抜本的な収益力の強化に繋がるかという点について、銀行による追加的な施策を含め、今後の進展を見極めたいとする市場参加者が引き続き多いのも事実だと思います。
昨年10月に日本銀行が公表した「不良債権問題の基本的な考え方」でも明らかにしたように、不良債権問題は、「バブルの負の遺産の処理」だけではなく、「産業構造や企業経営の転換・調整圧力を背景に新規に発生した不良債権への対処」という性格も加えつつあります。
それだけに、不良債権問題克服のためには、産業構造転換などを図る中で、いかに企業・金融機関双方の収益力を強化していくかが重要ということであり、この面では今後とも粘り強い努力が必要だということです。また、そうしたプロセスにおいては、何らかのショックを契機に、金融機関の貸出態度がタイト化して、信用力の低い企業を中心にその設備投資に大きな打撃を与えるリスクも頭に置いておかなければならないと考えています。
2.持続的成長軌道への復帰の道筋
こうした日本経済の現状を、より長い目で振り返ってみますと、現在は90年代以降3度目の景気回復局面にあると位置付けることができます。93年末から97年央と99年初から2000年末の過去2度の回復局面では、海外経済の減速や金融システム不安などをきっかけに景気は数ヶ月で勢いを失い、民間需要を中心とする自律的かつ持続的な拡大には繋がりませんでした。
このようにみますと、現在の日本経済にとって重要なのは、いかにして今度こそ持続的で安定的な成長軌道に復帰するかということです。そのための道筋を考える際には、(1)金融政策と財政政策の発動余地、(2)金融システムの健全性、(3)経済システムの柔軟性、という3つの観点が重要であると思います。
私は先週末にパリで開催されたG7財務大臣・中央銀行総裁会議に出席しました。その際に公表された声明文は、G7諸国が一段と高い成長率を実現するために必要な措置をマクロ経済政策に限らないかたちで、欧州、日本、米国などについて具体的に列挙しました。その中で、日本については、「金融・企業セクターを含む構造改革」への取組みが挙げられていますが、私がこれからお話しする3つの観点に基づいた議論とかなり共通する認識を示したものであると思います。
金融政策の発動余地
まず、ひとつめの視点として、マクロ経済政策の発動余地から考えてみましょう。金融政策面では、日本銀行は、ゼロ金利制約に直面しています。短期金利の引き下げ余地は、90年代前半で事実上ほぼ使い尽くされ、私が98年3月に就任した際には、無担保コール・レートは、既に0.5%を下回る水準となっていました。
そうした状況で、これまで私は、僅かに残った金利低下余地をぎりぎりまで活用する努力を続けてきました。そして、2001年3月からは、短期金利以外の金融緩和の波及ルートも模索して、日銀当座預金残高を金融市場調節の主たる目標とする量的緩和の枠組みを採用し、その下で潤沢な資金供給を続けるという未踏の領域に踏み込んでいます。
こうした潤沢な資金供給の結果、日本銀行のバランス・シートは急速に拡大し、例をみない規模に到達しています(図表1、2)。直近時点のバランス・シートの規模は、97年度末の91兆円よりも4割程度も高い128兆円となっています。また、歴史的にみても、マネタリー・ベースの対名目GDP比率は、第2次世界大戦の期間を除けば、過去に例をみない水準となっており、まさに異例の対応を採っていることを象徴していると思います。
世界の中央銀行と比較しても、日本銀行のバランス・シートは、為替レートで換算したベースでECBのバランス・シートを上回り、世界最大の規模となりました。名目GDP比でみると97年度末の18%から26%へ上昇し、26%という規模は、ほぼ同時期のECBが11%、FRBが7%であることを考えると、いかに飛び抜けた大きさなのかをご理解頂けると思います。
こうした思い切った金融緩和は、金融市場に極めて強力な緩和効果をもたらしました。金利面では、今やオーバーナイトの無担保コール・レートは0.001%にまで低下しています。より長いタームの金利についても、5年物の国債レートが0.3%を下回る水準をつけています。
こうした長めの金利も低下している背景としては、「消費者物価が安定的にゼロ%以上となるまで、現在の思い切った金融緩和を続ける」というコミットメントが、市場参加者の予想に働きかけることを通じて、強力に作用していることが大きく寄与しています。
量的緩和の枠組みのもとでの日本銀行による潤沢な流動性の供給は、流動性需要の急激な高まりに機動的に対応し、市場に流動性についての安心感を醸成することを通じて、金融市場の安定確保に大きな役割を果たしてきました。
この結果、日本銀行は、米国同時多発テロを初めとして、企業倒産の増加や年末、年度末、中間期末といった節目毎に繰り返された金融市場における緊張感の高まりを克服し、極めて緩和的で安定的な市場環境を維持してくることができたのです。
こうした市場の安定確保は、金融システムの安定といった観点のみならず、マクロ経済的な観点からも、この間、経済がスパイラル的な悪化に陥ることを防いだという意味で大きな貢献だと思っています。
ただ、潤沢な流動性供給が、市場の安定確保を通じた景気の下支えという役割を超えて、需要を刺激し、景気を持ち上げていく効果を持ったかといえば、これまでのところ、残念ながら、そうした効果は限定的であったと言わざるを得ません。
これは、やはりゼロ金利制約により金利低下の余地が小さいということに加え、経済が不良債権問題や企業部門の過剰債務といった問題を抱える中で極めて緩和的な金融環境を利用しようという前向きの動きが民間部門にみられないことが作用しています。
日本銀行としては、今後とも、日本経済を持続的な成長軌道に復帰させるべく、中央銀行として最大限の努力を続けていきたいと思っています。同時に、今お話ししたように金融政策の有効性を阻害する様々な要因が存在していることも冷静に認識しておかなければなりません。
財政政策
マクロ経済政策のもうひとつの柱である財政政策については、90年代以降、大規模に発動された局面もあり、景気下支えに一定の効果を持ったことは間違いありません。
しかし、財政政策については、その発動規模から期待されるほどには効果が十分には実現されなかったことも事実です。これは、財政支出の質や内容という面で、必ずしも有効ではなかったことが影響していると思います。ひとつの例は、日本の財政支出における公共投資のシェアが既にOECD諸国の中でも非常に高い水準に達している中で、効率性のよくない公共投資が行われたことです。このことによって、乗数効果の低下などを通じて民間需要への波及が限定されたほか、経済全体の生産性もその伸びを阻害されたと思います。また、そのような状況の下では将来の財政バランスに対する不安も強く、そのために減税政策についても、必ずしも期待された効果をもたらさなかった面があると思います。
こうした財政出動が長年続いてきた結果、政府債務は著しく増加し、G7諸国の中でも、グロスの債務は最も高水準となっています。債権も考慮したネットの債務でみると、幾分割り引いて評価する必要があるとはいえ、財政政策の量的な拡大の余地やその政策効果については制約が出てきていることは間違いありません。ただ、それだけに、これまで以上に、民間需要を引き出すようなかたちで税制改革や支出内容の見直しを含めた適切な財政運営が行われることが求められていると思います。
金融システム問題と信用仲介機能
次に日本経済を持続的成長軌道に戻すための道筋を考えるうえでの金融システムの役割について考えてみましょう。
金融システムが抱える不良債権問題、そして同じコインの裏側である企業部門の膨大な債務の問題が、日本経済に重石としてのしかかっています。そのもとで、これまでの長期にわたる経済の停滞を受けて企業の期待成長率も大きく低下し、企業は多少キャッシュ・フローが改善しても、その資金を設備投資に振り向けるというより、債務の返済にあてる傾向が続いています。
こうした動きは、マネーサプライ(M2+CD)の伸び率鈍化というかたちでも表われています。マネーサプライは、昨年末にかけて前年比3%台の伸びを示していましたが、足許では2%程度に鈍化しています。こうした伸び率鈍化の直接的な理由は、一昨年に急激な資金シフトが生じたことの反動といった、ややテクニカルな要因によるものですが、当面、高い伸びを期待できるような状況でないことも事実です。
言うまでもないことですが、マネーサプライは企業や個人が保有する預金と現金の総量であり、マネーサプライの動きは、その大部分を占める預金の動きによって決まってきます。預金は金融機関の債務ですから、金融機関の信用仲介活動と借り手の資金需要の結果として決まってくるものであるということを、改めて強調したいと思います。
マネーサプライの伸びが大幅に高まるということは、結局、金融機関のバランス・シートの規模を大幅に拡大させることを意味しています。しかし、企業が過剰債務の返済を進めている現在の状況の下では、金融機関の貸出等が直ちに増加することはなかなか期待し難いように思いますし、また、企業の過剰債務の圧縮自体は、当面必要な調整のプロセスです。
その意味で、金融機関の信用仲介活動をどのようにして活発化させていくか、またそれと同時に、金融機関以外のルートを通じる資金仲介のパイプをいかに強化していくかということが、現在、金融機関の監督当局を含め政策当局が直面している課題であると思います。
資本市場発展の重要性
このように不良債権問題を抱える銀行セクターを通じた信用創造活動に制約がある中では、代替的な資金仲介のチャンネルである資本市場の機能を有効に活用することが、日本経済を持続的な成長軌道に復帰させるための重要な糸口になります。
銀行を通ずる間接金融と資本市場は、金融面での「車の両輪」であり、どちらが優れているとか、どちらが重要であるというものではありませんが、資本市場の持つ比較優位は、効率的な資金配分を実現するための価格発見機能にあると思います。こうした機能は、経済環境が刻々と変化する中で、生産資源の再配分がスピーディーに進められなければならない現在の状況においては、とりわけ重要であり、多様な市場参加者が価格形成に関与する資本市場の育成・整備に対する期待は高まっています。
ただ、わが国の資本市場の規模は、米国などに比べてかなり小さなものに止まっています(図表3)。企業セクターの資金調達面をみると、金融機関による貸出残高は約300兆円に達する一方で、社債・CP市場の発行残高は80兆円程度です(図表4)。
また、規模だけでなく、資本市場における参加者の資金仲介活動をみると、「リスクとリターンを正確に評価し、そこから弾き出された計算結果にしたがって資金運用、資金調達を行っていく基本姿勢」が根付いていません。資金調達サイドでは、社債を発行する企業は一部に限られ、様々なリスクとリターンの組み合わせを投資家に提示しようという動きが十分にみられない一方、投資家サイドでも、最適のリスクとリターンの組み合わせを追求しようとする姿勢が不十分なように思います。
こうした点に加えて、わが国において資本市場の発展を促すために必要だと思われるのが、公的金融機関が果たす役割の明確化です。わが国金融市場における公的金融のウエイトは、他国に比べて著しく高いものになっています。公的金融機関の規模が大き過ぎると、経済全体のリスク・リターンの関係が歪められ、市場経済の持つ価格メカニズムが経済に貫徹しないという問題が生じてきます。
公的金融機関の役割を否定するものではありませんし、今後もその役割は厳然として存在すると思っています。ただ、長期的には、そうした公的金融機関の役割は、政策的に必要な分野に限って、しかも直接的な融資のかたちではなく、信用補完の機能に集約されていくべきではないかと思います。例えば、中小企業の売掛債権担保CPなどの証券化市場を少しでも早く育てていくため、信用補完によって市場の発展をサポートしていくというのも公的金融の果たせる役割として考えられます。
経済システムの柔軟性
日本経済の持続的な成長軌道復帰への道筋を考える際の第3番目の論点として、経済システムの柔軟性についてお話ししたいと思います。
持続的な成長軌道への復帰には、経済それ自体が、環境の変化や様々なショックに対して柔軟に対応することが重要です。マクロ政策面で適切な措置が講じられるとともに、資金仲介機能の十分な発揮が促されるような対応が採られることも必要ですが、経済システム自体の柔軟性を高めるよう、様々なかたちでサポートする政策もこれまで以上に必要とされていると思います。
不良債権問題に関連しても申し上げましたが、現在の日本が抱える構造問題は、バブルの負の遺産だけではなく、長期的に進行する少子・高齢化に加え、80年代後半から90年代にかけて急速に顕現化したグローバル化や情報化といった大きな環境変化に対し、経済システムが柔軟に対応しきれていないことがもたらしている問題でもあります。
こうした環境変化への対応は、資産価格バブルの生成と崩壊の影響や、規制緩和の遅れや経済に占める公的部門のシェアの大きさなどから、先送りを繰り返されてきており、それが、現在の日本経済の厳しい状況の一因になっていると思います。
私は、かねてより、日本経済を持続的かつ安定的な成長軌道に復帰させるためには、不良債権問題等への対応を含め構造改革を進めることが不可避であると申し上げてきました。構造改革は、生産性を向上させるために供給サイドに働きかける政策であり、経済環境の変化に対応して、労働、土地、資本という生産要素を最も効率的に再配分するためのインフラを整備することを意味します。現在は、こうした生産要素の効率的かつ適切な再配分が、企業間、業種間、地域間など様々なレベルで求められている状況です。
構造改革を進めるために、政府等の役割は重要でありますが、なんといっても、構造改革を進める原動力は、民間経済主体、とくに企業であります。個々の企業が、市場メカニズムの中で、生産や投資といった経済活動を営むことを通じて、はじめて効率的な資源配分が実現されることになります。
そうした観点から、私は、これまで、企業再編の動きなど個別企業の動向にも注視してきました。ここへきて、グローバル化、情報化といった経営環境の変化に対応するために、企業再編等の動きが活発化しているように窺われ、非常に意を強くしているところです。今後とも、こうした動きが広がっていくことを期待したいと思っています。
3.インフレーション・ターゲティング
これまでお話ししてきたように、率直に言って、日本経済を持続的な成長軌道に戻すためには、なかなか即効薬が見当たらないのが現状です。詰まるところ、各経済主体がそれぞれの分野で粘り強く構造改革努力を進めるとともに、マクロ経済政策面でも、可能な限り努力を続けていくしかないと思います。
こうした状況のもとで、日本経済全体に一種の閉塞感が漂っていることは否めず、金融政策に関するインフレーション・ターゲティングを巡る議論にしても、そうした閉塞感の反映であると思っています。しかし、インフレーション・ターゲティングを日本経済の直面する問題の有効な解決策であるとする議論は、次のような点で適当ではありません。
第1に、現在の日本経済は緩やかな物価下落を経験していますが、こうした物価の下落が最大の問題であって、物価の下落さえ止めれば事態が改善するという議論は、原因と結果を取り違えた議論であると思います。経済成長率と物価上昇率の関係を統計的にみると、成長率が高まって1~2年たってから物価が上昇するという関係がみられる一方で、その逆のケースは見受けられません(図表5)。
第2に、インフレーション・ターゲティングは、本来、「金融政策の透明性を高める枠組み」であります。現在日本で聞かれる議論は、これを「デフレ克服の手段」と位置付けている点で問題があります。
多くの人々は、インフレーション・ターゲティングの下では、中央銀行は目標となるインフレ率の達成を最優先するため、非常に機械的な政策運営をするのではないかと受け止めている面があります。しかしながら実際に、インフレーション・ターゲティングを採用している国においては、中長期的にインフレ目標を達成することが重視され、実際のインフレ率が短期的に目標から乖離することを含め、政策運営は、幅広い裁量の余地をもって行われています。重要なのは、そうした短期的な乖離について十分な説明が行われることであって、そうした意味でインフレ目標は金融政策運営を説明するための重要なコミュニケーション・ツールの役割を果たしています。
これに対して、現在の日本では、デフレ克服の手段としてインフレーション・ターゲティングが議論されています。
私は、日本経済が様々な構造問題を抱える中で金利がゼロに達し、金融緩和効果が大きな制約を受けている状況においては、金融政策の枠組みとしてインフレーション・ターゲティングを採用することは適切でないと考えています。
インフレ期待を変えることが実質金利を低下させる有効な道筋であることは事実です。しかし、有効な政策手段とメカニズムを欠く中で、人々の期待を政策当局の言葉だけで飴細工のように変化させるのは無理であると思います。
さらに、効果がないだけでなく、インフレーション・ターゲティングの採用によって、もし仮に「日本の経済政策全般への信認を失わせるような極端な手段が採られるのではないか」といった予想が生まれれば、市場や経済を著しく不安定化させる惧れすらあることにも留意すべきであると思います。
現在のインフレーション・ターゲティングを巡る議論の第3の問題点は、「デフレは貨幣的な現象である」という議論に基づいている点です。インフレーション・ターゲティングを主張する論者は、「経済学の教科書にも載っている」として、こうした議論を現在の日本にそのままあてはめようとしますが、ゼロ金利制約や不良債権問題に直面するわが国経済の現状を踏まえたうえで理論を適用することが必要であると思います。経済学の教科書についても、現在の日本やその他の国々で経験しつつあることを踏まえて、デフレやその下での金融政策について重要な数章が書き足されることになるだろうと思っています。
より重要なのは、先程も申し上げたように、現在の金融政策の直面する問題は、マネー自体を増やすメカニズムが大きく制約を受けているということです。このような際に、マネーさえ増やせば全てが解決するという議論は、政策論として根源的な問題を回避したものであると思います。
以上のような理由から、現時点でインフレーション・ターゲティングの採用は適切でないというのが私の考えです。ただ、そのことは、決して日本銀行が物価下落を容認していることを意味する訳ではありません。
日本銀行は、日本経済を出来るだけ早期に持続的な成長軌道に復帰させ、物価が前年比マイナスの基調から脱却できる状況を実現するため、中央銀行として最大限の努力を続けてきています。現在の「消費者物価が安定的にゼロ%以上となるまで、現在の思い切った金融緩和の枠組みを続ける」というコミットメントは、そうしたデフレ脱却への強い決意を示したものなのです。
4.金融市場、インフラの整備
ここまでは、日本経済を持続的な成長軌道に戻すための道筋について、金融政策面を中心にお話ししてきましたが、マクロ経済に対する中央銀行の貢献は、狭義の金融政策に限られるものではありません。
金融市場の整備や機能の強化といったテーマも、中央銀行にとっては常に取り組むべき重要な課題です。金融市場は、中央銀行が金融政策を実践する場であり、そうした場が十全に機能するようにきちんと整備されているかどうかは、政策効果のよりスムーズな波及、実現という面で極めて大事な要素です。また、先程述べたように、金融市場は、それ自体として、持続的な経済成長を実現していくうえで必要な資源配分を効率的に行っていくといった重要な機能も果たしています。本日は、時間の制約もありますので、金融政策に関係の深い取り組みについて簡単に触れたいと思います。
RTGSの導入
ひとつは、2001年1月に実現した日本銀行当座預金決済の「即時グロス決済」化です。英文の頭文字をとって「RTGS」とも呼ばれますが、「中央銀行に対して、民間銀行が当座預金の資金振替を依頼した場合、中央銀行はこれをひとつずつ即座に実行する」というものです。
RTGSの導入は、それ以前の一定の時点まで未決済残高を貯めて一斉に決済する方式と比べて、未決済残高を圧縮するとともに、特定の金融機関が支払不能に陥った場合の連鎖を限定するという意味で、資金決済に何か問題が生じた場合のリスクを著しく小さくすることに貢献しました。
日本銀行は、これまで潤沢な流動性供給を通じて市場の安定確保とそれを通じた景気の下支えに努力してきましたが、RTGSに伴うこうした決済面でのリスクの削減も、大きな役割を果たしていることは言うまでもありません。
FBの公募入札
もうひとつは、FB、すなわち政府短期証券の公募入札化の実現です。今から振り返ると異常な事態であると思えますが、世界第2位の経済規模を誇るわが国の金融市場において、僅か数年前までは、FBの中央銀行による引受けという状態が長年にわたり続けられていました。
FBは、その信用力、流動性の高さや商品の均一性といった観点からみて、内外のニーズが高く、短期金融市場の中核商品として、最も相応しいものです。そうした商品の市場に十分に厚みがない場合には、短期金融市場において円滑な金利・価格形成が難しくなり、日本銀行の金融調節手段の確保や金融政策運営という観点からも、大きな問題となります。
こうした状況を踏まえて、日本銀行は、当時の大蔵省を始め関係各方面と鋭意検討を進め、98年12月にFBの発行方式を原則として市中公募入札方式に改めることに合意をみた後、翌年4月より実施することが出来ました。
FB市場のその後の発展は、期待どおりに金融調節や金融政策運営の面で重要な貢献を果たしています。それと同時に、FBは、現在の局面において、安全で流動性の高い資産を求める投資家の重要な受け皿として大きな役割を果たしています。仮に現在もFBの引受が続き、そうした受け皿がなかった場合には、金融市場の安定確保は今にも増して難しい仕事となっていたと思われます。
ABS、ABCPの適格担保化
金融市場整備との関連で、もうひとつ挙げておきたいのが、資産担保債券(ABS)や資産担保CP(ABCP)等の適格担保化です。
日本銀行は、手形オペや補完貸付などの担保として、信用力と市場性を主な基準に適格担保を選定しています。私どもは、日本銀行による流動性供給手段の多様化という観点に加えて、適格化が間接的に企業金融の円滑化にも寄与することを念頭に置きつつ、ABSやABCPなどの新しい金融商品について、市場の変化に応じて適格担保に取り込んできました。
こうした証券化商品の担保持ち込み額自体はあまり多くありません。しかしながら、こうした新商品の適格担保化は、流動性付与などを通じて、市場の発展にも寄与していると考えています。
5.透明性向上の努力
それでは最後に、金融政策の透明性向上に向けた取り組みについてお話ししたいと思います。
冒頭でも申し上げましたが、私の日本銀行総裁としての任期のスタートは、「独立性」と「透明性」をキーワードとする新日銀法の施行とほぼ時を同じくしています。新日銀法は、他国の中央銀行法に比べて遜色のない立派な法律であると思いますが、そこに盛り込まれた規定や精神をいかに実践していくかという問題は、日本銀行にとって一貫した大きな課題です。
そういう意味で、私の日本銀行総裁としての金融政策面での取り組みは、どのような金融政策を採るかという点でも十分難しい舵取りを迫られましたが、同時に、そうした政策を新しい日銀法の枠組みのもとで、どのようなかたちで議論、決定し、対外的に説明していくかという面でも色々と悩み、工夫を重ねてきたつもりです。
例えば、2000年10月からは、所謂「展望レポート」を半年に1回公表し、先行きの日本経済の標準シナリオと想定されるリスクを整理するとともに、物価と成長率に関する政策委員の見通しも参考情報として示すこととしました。展望レポートのシナリオとリスク整理は、その後の毎回の金融政策決定会合において議論を行っていく際に、共通の土台を提供することで、議論の充実化とその対外説明力の向上という双方の面で役立っていると思います。
金融政策運営については、法律に定められている、約1ヶ月後に公表される議事要旨や国会に提出する半期報告書といった媒体だけではなく、国会における答弁や記者会見の場を利用して、なるべく分かり易く説明すべく努めてまいりました。因みに、総裁就任後から本年の1月までの国会での答弁回数を数えてみたのですが、実に382 回に及んでいます。
また、透明性の向上は、金融政策運営に直接関係するものだけではなく、日本銀行の金融市場調節に関連するものに関しても積極的に進められています。オペ先の選定基準や適格担保基準の公表はその一例ですが、そのほかにも2001年6月からは日本銀行の保有する国債の銘柄別残高を毎月公表しているほか、昨年6月からは、日本銀行が受け入れている担保の内訳毎の残高を公表し始めました。
こうした取り組みの結果、わが国の金融政策についての透明性に関しては、世界のどの中央銀行と比較しても遜色のない枠組みを整備できたと考えています。この点は、IMFが策定した「金融政策の透明性基準」に基づいて、昨年夏、私ども自身で自己評価を行い、結果を公表していますが、その際にも改めて認識したところです。
ただ、透明性の枠組みが整備されたからといって、それだけ金融政策について十分な理解が得られているという訳ではありません。事実、多くの批判的なご意見を頂いてもいます。これは透明性のための枠組みに問題があるからというより、本日ご説明したように、金融政策の有効性が様々なかたちで制約を受け、目に見える結果がなかなか出ていないことや、ゼロ金利制約に直面した後の量的緩和という未踏の領域での政策運営を余儀なくされていることなどが、少なからず影響しているものと思っています。
いずれにせよ、新日銀法のキーワードである透明性は、民主主義の仕組みの中で独立性を与えられている中央銀行にとって重大な責任であるだけでなく、金融政策の有効性を高めていくうえでも大きな意味を持ちます。今後とも、透明性の向上に向けて弛まず努力を続けていくことが重要であると考えています。
6.結語
本日は、私のこれまでの日本銀行の取り組みを金融政策面を中心に振り返ってまいりました。
この5年間の取り組みを振り返ると、まさに日本経済を持続的かつ安定的な成長軌道に戻すために、中央銀行として何ができ、何ができないかを模索してきたプロセスであったと思います。
その際には、中央銀行として出来ることと出来ないことの境界について、前例に囚われることなく、知恵を絞り、勇気をもって、ぎりぎりの領域を模索してきたつもりです。短期金利がゼロに到達した後も、量的緩和という新たな枠組みを採用し、そのもとで極めて潤沢な資金供給を行ってきましたが、これは世界の中央銀行の歴史に類をみない試みであります。また、昨年秋には、金融システム安定化のために、銀行が保有する株式を直接購入するという、中央銀行にとっては極めて異例の施策も打ち出しました。
そうした中で、日本経済の再生に向け、日本銀行の一層の貢献を求める声が引き続き強いことは承知していますし、日本銀行としても、今後とも、知恵と勇気をもって、何が出来るかを真摯に検討し、実行していく覚悟です。
ご清聴どうもありがとうございました。
以上