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「日本経済の現状・先行きと物価の安定」
神戸市における金融経済懇談会での須田美矢子審議委員挨拶要旨
2006年7月26日
日本銀行
目次
1.はじめに
日本銀行の須田美矢子です。日本銀行では、総裁、副総裁および政策委員会審議委員、いわゆる「政策委員」(ボードメンバー)が、できるだけ頻繁に全国各地を訪問し、日本銀行の施策の趣旨をご説明申し上げ、かつご意見を直にお聞きして、政策判断の際に参考にさせていただいております。本日は、兵庫県の各界を代表する皆様方にご多忙のなかをお集まりいただき、親しくお話しする機会が得られましたことを誠にありがたく、光栄に存じます。また、日頃、私どもの神戸支店が大変にお世話になっております。この場を借りて厚くお礼申し上げますとともに、今後ともよろしくご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。
本日、私からは、日本経済の現状・先行きと物価の安定および当面の金融政策についてお話しさせていただき、最後に神戸のこれからについて僭越ながら私の意見を少し述べさせていただいた後、皆様方から当地の実情に即したお話や忌憚のないご意見を承りたいと存じます。
2.日本経済の動向
展望レポートの中間評価
先日の金融政策決定会合におきまして、私ども日本銀行が本年4月に公表した「経済・物価情勢の展望」(いわゆる「展望レポート」)で示した「経済・物価情勢の見通し」についての中間評価1を行いましたが、日本の景気は、概ねその「見通し」、すなわち、「2006年度から2007年度にかけてのわが国経済を展望すると、内需と外需、企業部門と家計部門のバランスがとれた形で息の長い拡大を続けると予想される。成長率の水準は、景気回復局面に入って既に4年以上経過する中で、今後景気は成熟段階に入っていくと考えられるため、2006年度は2%台半ば、2007年度は2%程度と、潜在成長率近傍の水準に向けて徐々に減速する可能性が高い。」との見通しに沿った動きであると判断しています。物価のうち消費者物価についても同様で、「2006年度は0%台半ば、2007年度は1%弱」という見通しに概ねそって推移していますが、国内企業物価は、原油価格をはじめとする国際商品市況高を背景に今年度は上振れて推移しています。
- 1日本銀行は、毎年4月と10月の年2回、金融政策決定会合の決定を経て、「経済・物価情勢の展望」(いわゆる「展望レポート」)において、日本銀行の経済・物価情勢に対する見通しを公表しています。さらに、そこで示した標準的な見通しについて、上振れまたは下振れが生じていないか、3か月後(1・7月)の金融政策決定会合で中間評価を行い、「金融経済月報」の「基本的見解」の中で公表することとなっています。また、「経済・物価情勢の展望」では、政策委員による実質GDP、国内企業物価指数、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の見通しを参考計表として掲載しています。こうした見通しの公表は、金融政策の透明性向上という観点から、日本銀行の金融政策運営に対する考え方や、経済・物価情勢についての見方を、よりわかりやすく伝える取組みの一環として行っているものです。
日本経済の現状
さて、日本の景気の現状をみますと、景気は緩やかに拡大しています。なお、私どもが公表している「金融経済月報」における表現が今月より「回復」から「拡大」に変更されていますが、これはマクロ的な需給ギャップが、長く続いた供給過剰状態を解消し、現在は需要超過状態に入ってきているとみられることを意味しているのであり、景気判断を上方修正したものではありません(図表1)。
足許の景気の動きをやや仔細にみますと、輸出は海外経済の拡大を背景に増加を続けています(図表2(1))。米国向けは、自動車関連や資本財・部品を中心にしっかりとした増加を続けています。中国向けも、幅広い品目で緩やかな増加傾向を辿っていますほか、NIEs・ASEAN向けについては、足許は一部地域で弱めの動きもみられていますが、基調としては増加傾向を続けています(図表2(2))。
内需に目を転じますと設備投資が引き続き増加しております(図表3)。設備投資の背景にある企業収益も高水準で推移しているほか、先に公表されました6月短観2でみた企業の業況感も、総じて小幅の改善がみられ、引き続き良好な状況が続いています(図表4、図表5)。消費に影響を与える雇用・所得環境については、労働需給は引き締まりの傾向を続けており、雇用者数も増加傾向を辿っています(図表6(1))。一方、雇用者所得は、所定内給与が足もとやや弱めの動きとなっていますが、緩やかな増加を続けています(図表6(2)、(3))。このような雇用・所得環境のもと、天候要因もあって足許やや弱めの動きも散見されますものの、個人消費も増加基調にあります。
こうした内外需の増加を背景に、生産も増加を続けています。業種別では、電子部品・デバイスが、パソコン向けや東アジア向けなどが弱めとなったことから横這い圏内の動きとなっていますが、輸送機械(自動車)が輸出の好調を背景に高めの伸びを続けていますほか、一般機械も半導体製造装置などを中心に増加しています(図表7)。在庫については、在庫循環図をみると、鉱工業全体では、自動車の船待ち在庫の大幅減から、足許の在庫の前年比は出荷の前年比を下回っています(図表8)。こうした中で、気になるのが電子部品・デバイスの状況ですが、前期比ベースでみると、足許出荷が頭打ち気味のもとで在庫が増加しています。これは、東アジアを中心とする、一時的な生産調整の影響と思われます(図表9)。
この間、物価については、先程も触れましたように、非鉄金属の大幅上昇に加え、原油価格の上昇を背景に石油・石炭製品、化学製品も上昇を続けていること、スクラップや銅製品等を中心に鉄鋼・建材関連が緩やかに上昇していること等を映じ、国内企業物価は上昇を続けています。一方、消費者物価(除く生鮮食品)の前年比はプラス基調で推移しています。内訳をみると、財ではガソリン価格上昇の影響からプラス幅がやや拡大したほか、サービス価格も外食、宿泊料を中心にプラス幅が幾分高まっています(図表10)。
- 2「短観」の正式名称は「全国企業短期経済観測調査」といい、全国の企業動向を的確に把握し、金融政策の適切な運営に資することを目的として、業況等の現状・先行きに関する判断(判断項目)や、事業計画に関する実績・予測(計数項目)など、企業活動全般に関する調査項目について、日本銀行が全国の調査先企業に協力していただき、四半期ごとに実施する統計調査(ビジネス・サーベイ)です。海外でも"TANKAN"の名称で広く知られています。
日本経済の先行き
次に、日本の景気の先行きについてですが、景気の先行きについても緩やかな拡大を続けるとみています。
輸出は、米国、東アジアを中心に海外経済の拡大を映じて、増加を続けていくとみています。現時点では、米国経済は、これまでの金利引き上げの効果等から幾分減速しつつあり、一時的に潜在成長率を小幅ながら下回るような成長率になる可能性が高いと思われますが、いずれ潜在成長率近傍に持ち直すというのがメイン・シナリオだとみています。先日公表されましたFOMC(米連邦公開市場委員会)メンバーの景気見通しによりましてもそのような姿が想定されています。東アジア経済についても、中国経済が高成長を続けていくほか、米国および中国経済が成長を続けるもとで、原油高の影響が一部にみられるNIEs・ASEAN諸国も総じてみれば緩やかな景気拡大が続くと考えています。
また、国内民間需要も、高水準の企業収益や雇用者所得の緩やかな増加を背景に、引き続き増加していく可能性が高いと考えています。6月短観で経常利益をみると、2006年度は、大企業が+13.3%、中小企業も+9.3%の増益となった2005年度に比べ、大企業がほぼ同じレベルの、中小企業が微増となる計画になっています(図表4)。
こうした中、設備投資について2006年度計画を同じく6月短観でみると、大企業では製造業が前年度比+16.4%と昨年同時期並みの高い伸びとなっているほか、非製造業は前年比+8.9%と、昨年に比べてさらに伸びが高まっています。また、中小企業をみると、製造業では、前回対比大幅に上方修正され、6月時点で既に前年並みの水準となっています。一方、非製造業については、前年比でみた計画値が現時点では1割程度下回っていますが、2005年度が1割以上の高い伸びとなったことを勘案すると底堅い計画だと評価できます(図表11)。
さらに、個人消費については、雇用者所得の緩やかな増加等を背景に、着実な増加を続ける可能性が高いと考えられます。これまでの景気回復・拡大により、雇用に対する不安は後退しており、雇用者所得に見合った個人消費の増加を想定しています。ただ、雇用のミスマッチで一部では大幅な賃金上昇が起こり得ると思いますが、総じてみれば、企業の慎重な経営スタンス、つまり、企業の人件費等のコスト削減姿勢は堅持されており、賃金の上昇圧力が明確に顕在化するには至っておらず、雇用者所得の増加は主として雇用者数の増加を中心に緩やかなものに止まると思っています。
こうした内外需要の増加を反映して、生産も増加基調を辿るとみられます。日本銀行が企業からお伺いしている話も総合すれば、7~9月期の生産は増加を続ける見込みです。
この間、日本経済の先行きについての上振れ・下振れ要因ですが、4月の「展望レポート」で指摘した「海外経済の動向」、「在庫調整の可能性」、「企業の投資行動の一段の積極化」の三項目で変わりはないと思っています。その中でも、私は「海外経済の動向」、とりわけ米国経済の動向とそれに伴う内外金融資本市場の動きを気にしています。
私は、米国経済の減速とインフレ加速を巡って不確実性が高まっており、その下振れリスクの度合いは多少なりとも強まっているように思います。米国経済の景気拡大テンポは、消費・住宅関連指標や雇用統計を眺めますと、確実に減速しています。シナリオどおりの減速なら望ましいのですが、問題は、来年前半にかけての減速の度合いが春先に予想していたより多少強まっている感がある上に、不確実性が高まっていることです。先ほど言及したFOMCメンバーなどの大勢見通しよりも市場予想は低いように伺われ、2006年後半から2007年にかけての実質成長率予想は下方修正されています。
米国景気の先行きについては、住宅価格の調整は、英国や豪州の最近の経験を踏まえますと、価格が前年比でみて下落するほどの調整には至らないと想定されます。また、国際商品市況は世界景気が後退すれば下がると思いますので、地政学的リスクはあるものの、基本的には先行きに大きな懸念を抱いてはいません。もっとも、それら先行きが見通しにくいことに加え、これまでの住宅市場の増勢鈍化やローン金利の上昇、ガソリン価格の高騰といったことの消費への影響はまだ十分把握できていないという問題があります。
他方、消費者物価については帰属家賃だけでなく医療サービスなど幅広く予想以上に上昇していますが、物価の先行きについても不透明です。実際、FOMCメンバーのインフレ見通しは上方修正されており、予想を上回るインフレの高伸が懸念されています。
フィリップス曲線のフラット化などの可能性もあって、原油高等を映じた物価上昇圧力の高まり方が読みづらくなっていると思います。フラット化の進捗度合いが測りきれない中で、インフレ期待が高まり、この抑制を狙った金融引き締めが行きすぎとなって、想定していたパスよりも成長率を低めてしまう可能性があると思っています。他方、潜在成長率を楽観的にみすぎて物価上昇圧力を過小評価する可能性も否定できません。FOMCの声明で「アコモデーション」という表現が「ファーミング」に変更されてからこれまで累計で1%ポイントの利上げが行われていることに加え、世界各国で金融政策が引き締め方向に調整されていますが、その影響を織り込みにくいことも金融政策の先行き不透明感を高める要因となっています。
ただ、現時点では株安が続いているもののマクロ統計をみる限り、米国経済の先行きについて標準シナリオの変更を迫るような統計は見当たりません。引き続き米国がインフレの加速を伴なわずにソフトランディングできるかどうか注意深くみていきたいと思います。なお、ファンダメンタルズが良好である限り、市場動向にはそれほど懸念していませんが、過剰ないしは長引く調整がファンダメンタルズに跳ね返ってくる可能性もないとはいえません。経済・物価の動向に加え、対外赤字やマイナスの貯蓄率の問題、米国を含めた各国の金融政策運営を巡る不透明感、また地政学的リスクや原油価格動向など不確実性が高い中、これまでの投資の更なる巻き戻しの可能性も含め、今後とも、市場動向についても注意深くみておきたいと思います。
さて、もう一つ気にしているのが、IT関連分野を中心とした在庫調整についてです。足許では、韓国や台湾での調整が両国への情報関連輸出に影響を与えていますが、現時点では、国内IT関連メーカーに変調はみられず、7~9月期は増産の計画と聞いております。企業の姿勢が以前に比べて慎重である一方、次世代家庭用ゲーム機が出揃うほか、次世代OSの発売が予定されていることなどもあって、調整があったとしても当初の想定どおり軽いもので済むと考えています。ただ、IT関連分野は世界的な供給拡大のペースも速く、ものによっては各メーカーの強気の生産計画が「合成の誤謬」をもたらしかねません。液晶パネルの価格下落のケースもありますので、足許の出荷・在庫バランスも踏まえ、IT関連分野の動向については注視していきたいと思っています。
さらに、景気循環について触れておきたいと思います。景気拡大局面であっても、今後、小さな景気の波が生じ、踊り場的な状況が生じる可能性はあります。只今、申し上げた「米国経済」、「IT関連分野の調整」のほか、「原油高」の状況如何では、そのような状況が生じる可能性は否定できません。実際、景気ウオッチャー調査の現状判断DIは3月をピークに減少し、6月には50割れとなりましたほか、足許の消費者コンフィデンスも横這いになっているように見えます。仮に足許で多少の踊り場的な状況が生じていたとすれば、秋以降発表される経済指標に、そうした状況が反映される可能性があります。ただ、先程も申し上げたとおり、当面の日本経済について点検する限り、緩やかな拡大を続けるとみており、仮に秋以降公表される経済指標が芳しくなくても、内外需の基調が私どもの見通しに沿ったものであるならば、景気変動の綾として整理できると思っています。
この間、物価の先行きについてですが、国内企業物価は、当面は国際商品市況高の影響などから上昇を続けるとみています。また、消費者物価の前年比については8月の消費者物価指数の基準改定によるマイナス方向の遡及改定幅が-0.3%弱に達する可能性があるほか、賃金の上昇圧力や商品市況などの不確実要因もありますが、マクロ的な需給ギャップが需要超過方向に推移していく中、プラス基調を続けていくと予想しています。
3.金融政策の新しい枠組みについて
新しい金融政策運営の枠組み
日本銀行は、3月9日に開催された金融政策決定会合において「量的緩和政策」を解除するとともに、「新たな金融政策運営の枠組み」の採用を決めました。この新たな枠組みは、金融政策運営にあたり、(1)中長期的にみて物価が安定していると各政策委員が理解する物価上昇率(「中長期的な物価安定の理解」)を数値で示すなど、「物価の安定」について明確化し、(2)2つの「柱」に基づく経済・物価情勢を点検し、(3)当面の金融政策運営の考え方を整理する、という三つの要素から成り立っています。この新しい枠組みの内容について少し触れさせていただきます。
まず、(1)「物価の安定」についての明確化ですが(図表12)、「物価の安定」とは、家計や企業等の様々な経済主体が物価水準の変動に煩わされることなく、消費や投資などの経済活動にかかる意思決定を行うことができる状況であって、概念的には計測誤差(バイアス)のない物価指数でみて変化率がゼロの状態であるとしました。そして消費者物価指数の前年比で表現すると、0~2%程度であれば、各政策委員の「中長期的な物価安定の理解」の範囲と大きくは異ならないとするとともに、政策委員の中心値は、大勢として、概ね1%の前後で分散していたことを明らかにしました。なお「中長期的な物価安定の理解」は、経済構造の変化等に応じて徐々に変化し得る性格のものであるため、今後原則として、概ね1年ごとに点検することにしました。
次に、(2)2つの「柱」に基づく経済・物価情勢の点検ですが、第一の「柱」で、先行き1年から2年の経済・物価情勢について、もっとも蓋然性が高いと判断される見通しが、物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどっているかどうかという観点から点検するとともに、第二の「柱」で、より長期的な視点を踏まえつつ、物価安定のもとでの持続的な経済成長を実現するとの観点から、金融政策運営に当たって重視すべき様々なリスクを点検するとしました。
最後に、(3)当面の金融政策運営の考え方の整理ですが、2つの「柱」に基づく点検を踏まえたうえで、当面の金融政策運営の考え方を整理し、基本的には経済・物価情勢の展望において定期的に公表していくとしました。
「中長期的な物価安定の理解」を巡って
今後の金融政策を考える上では、この新たな枠組みの一部のみを取り上げるのではなく、トータルでとらえることが重要ですが、これまで「中長期的な物価安定の理解」に少し注目が集まりすぎだと思っています。物価安定の数値に対して「理解」という耳慣れない言葉が使われたこともありますが、これを他国の目標値と同列に並べて比較し、下限が低すぎるのではないかとの指摘が聞かれます3。ただ、「中長期的な物価安定の理解」は日本銀行としての「理解」ではなく、各政策委員の数値の和集合を示したものであることを認識しておく必要があります。各政策委員は、「物価の安定」についての考え方(図表12)にあるように、数値を出すにあたって、物価の計測誤差(バイアス)や物価下落と景気悪化の悪循環の可能性、家計や企業が物価安定と考える物価上昇率の捉え方などについて考察していますが、それぞれが独自の判断で行っています。従って、他国のように意見を調整し中央銀行という組織で決定して出した数値とは自ずと意味が異なることになります。つまり、われわれの数値の下限はこれ以上数字が下がれば全員が物価安定とは理解していないという数字でしかありません。政策は多数決で行われること、大勢の中心値はゼロ近辺ではないことを考えると、この下限ゼロへの注目度は高すぎると思っています。
実際、政策委員の一人の変更で数字も変わりえます。例えば、このたび米フィラデルフィア連銀の新総裁に指名されたプローサー氏は、影のFOMCで望ましいインフレ率を-1%から+1%としていました4。このような考え方の持ち主がボードメンバーに加わると、物価安定の理解は下限が広げられる可能性さえあります。
もっとも、数値が変化し得るとすると、公表された数値にインフレ予想のアンカーとしての機能を十分に期待できなくなるという批判もでてきます。ただ、私どもは、「0~2%程度であれば、「中長期的な物価安定の理解」の範囲と大きくは異ならない」という幅をもった言い方をしていますので、実際に示している数値のレンジが毎年大幅に修正されるようなことは考えにくいと思っています。
いずれにせよ「中長期的な物価安定の理解」の数字だけでなく、展望レポートの標準シナリオの評価と、より長い目でみたリスク点検、それらを踏まえた金融政策運営方針の整理といった枠組み全体で金融政策運営を行っていくことをわかっていただきたいと思っています。
- 3今年のBIS年報には、この新しい枠組みについて詳しく説明されていますが、数値については、「日本のデフレの経験を踏まえてレンジの下限について当然のことながら問われたが、日本銀行は将来、デフレのリスクに対してより広いセーフティマージンが必要になる可能性を認識していると述べた」と記されています。また、OECDの「Economic Surveys JAPAN」(2006年7月)では、物価安定の理解の下限を上げるべきであると指摘しています。
- 4詳しくは、Charles I. Plosser "Deflating Deflationary Fears" Shadow Open Market Committee (2003)をご参照ください。
国民の目線でみた物価安定の理解
そうはいっても下限が低すぎるのでは、という意見に対して、私の物価安定についての考え方をここで示しておきたいと思います。私は、物価安定について数値化する際に、国民の物価観、つまり、国民が、物価が安定していると考える物価上昇率を大事にする必要があると思っています。国民はこうした物価上昇率を前提にして経済活動の意思決定を行っていると考えられますので、物価安定についての数字が国民の物価観から離れたものになると、国民の物価の先行きに対する見方に混乱を引き起こし経済が不安定化しかねないと思っています。また今回の物価安定の数値化を私ども政策委員と国民が物価の安定を巡って、効果的なコミュニケーションを行うことを可能とするための一つの方法と位置付けておりますので、その第一歩としてまずは国民の目線を大事にしたいということでもあります。
日本銀行が四半期ごとに行っている「生活意識に関するアンケート調査」によりますと、全体としての物価の見方は実際の物価の動きと対応していることがわかります(図表13(1))5。とはいえこの間、多くの調査時点で過半数の人が過去1年間物価はほとんど変わっていないと答えています。そこで過半数の人が物価安定だと考えている時期を実際の消費者物価に対応させてみますと、消費者物価の前年比においてコア、ヘッドラインでみて-0.5%~+0.5%程度のときに、過半数の人が、物価が安定していたと思っていたことがわかります(図表13(2))。また、具体的な数値を質問項目に加えるようになって以降6、「1年前比」と「1年後予想」について、物価が「ほとんど変わっていない」、「ほとんど変わらないと思う」と回答した人のほとんどがインフレ率も主観的には「ゼロ%」と回答しています(詳しくは「BOX」をご参照ください)。現時点では、このようなインフレ率を国民は物価が安定している状態と捉えているということになります。
なお、先日公表されました6月の調査の内訳をみると、1年後の物価が上がると思うとの回答が大きく増え、これまでずっとゼロであった1年後の物価上昇率の中央値は2%にまで上昇しています。ここにきてインフレについての捉え方が変化し、デフレマインドは解消されてきたことがわかります。同様のことは内閣府の「消費動向調査」からも窺えます(図表14)。
ただし、3月調査と比べて「1年前比」、「1年後予想」ともかなり平均値が上昇しましたが、公表されているアンケート結果で示されたインフレ率の平均値は高すぎると思われます。実際、現実離れした値を修正してみますと、アンケート結果における上昇幅ほど大きな上昇ではないと推測されます(図表15、詳しくは「BOX」をご参照ください)。
さて、主観的に「物価が上がっている」と思っている人の物価上昇についての感想は、「どちらかと言えば、困ったことだと思う」という答えが8割を占めています。他方、主観的に「物価が下がっている」と思っている人の物価下落についての感想は、「どちらかと言えば、好ましいことだと思う」という答えが一番多くなっており、国民は物価上昇を望んでいないことが伺えます(図表16)。
ただ、個々人は自分の名目所得を与件として答えている可能性が高いので、物価の下落は経済全体でみて望ましいということにはなりません。実際、かつてデフレ期待が定着すると消費を先送りすることになるから望ましくないという議論がなされました。仮に、それが正しいとするとデフレ期待が解消しインフレ期待が高まってきた今日、消費が活発化することが想定されます。しかし足許、インフレ期待の高まりのもと消費動向調査や景気ウオッチャー調査における消費者コンフィデンスは悪化しています。実際の消費は天候要因があるもののそれほどよくはありません。つまりデフレ期待の解消とともに消費が増えるというシナリオは顕現化していません。この点からはマイルドなデフレのもとではデフレ期待による消費の先送りをデフレのコストとして強く認識する必要はないといえるかもしれません。つまり過半数の国民が、物価が安定し主観的にインフレ率がゼロと思っているような状況では、実際の物価指数は僅かなマイナスを示すことがあってもこのようなコストを意識しないでよいということなのではないでしょうか。
- 5 物価の先行きに対する見方の求め方については、二宮拓人・上口洋司、「「物価の先行きに対する見方」の指標」、『日銀レビュー』、2005-J-5(2005年3月)をご参照ください。
- 6 「生活意識に関するアンケート調査」においては、2004年3月調査より、インフレ率について、「1年前比」(物価は1年前と比べてどのように変わったと感じていますか)、「1年後予想」(1年後の物価は、現在と比べるとどうなると思いますか)、「5年後予想」(これから5年間で物価は、現在と比べるとどうなると思いますか)の数値(インフレ率)も回答していただくようになりました。
望ましい物価安定の数値化の難しさ
国民の目線に合わせて、物価安定の理解の数値を求めるとしても、政策担当者としてはそれをそのまま用いるわけにはいきません。「中長期的な物価安定の理解」を数値で示すにあたっては、物価指数のバイアスやインフレ率ののりしろについて検討が必要となります。
まず、物価指数のバイアスについては、主として品質調整の不足や新製品取り込みの遅れによって、物価上昇率は過大評価されています。これは、実質成長率や実質金利を過小評価することにつながります。ただ、「物価の安定」についての考え方やその背景説明文に示されているように、日本の消費者物価指数のバイアスは大きくないとみています。8月の基準改定後も長い目で見ると指数作成者の改善努力が続きますので、より一層バイアスが低下していくとみています。
次に、インフレ率ののりしろについては、金融政策運営上はデフレに陥るリスクを小さいものにするためにはある程度のインフレ率ののりしろ(バッファー)が必要だという考えは現在の学界の主流であり、例えば、バーナンキFRB議長は理事時代にのりしろは少なくとも1%だと述べています7。
のりしろにかかわる様々な要因については理論的にあるいは定量的にもこれまでいろいろ議論されてきていますが8、これら要因をひっくるめてトータルで必要なのりしろを量的に把握することは困難です。ただ言えることは、これについても日本においてはかつてよりも低くなりつつあるのではないかと思っています。その理由は、一つには物価をめぐる環境が変化しつつあるからです。もう一つはそのこととも関係しますが、物価下落を回避することに対する関心をこれまでほど強く持ち続ける必要性が低下しつつあると考えているからです。
前者の環境の変化については、3月9日に公表した物価の安定についての考え方の背景説明では、のりしろに関係する要因として、名目賃金の下方硬直性の度合い、潜在成長率の水準、金融システムの頑健性、財政政策の発動余地、金融政策の有効性の5つがあげられています。これらについては財政政策の発動余地は別にして、残りの4つの要因についてはのりしろを小さくする方向に変化しています。つまり、名目賃金の下方硬直性は観察されなくなり、金融システム不安も解消され、潜在成長率も回復しつつあります9。ゼロ金利制約のもとでも金融政策は時間軸効果を働かせることができることもわかりました10。
それらに加えて、ゼロ近辺の物価変動に国民が慣れてきた、つまりそれはサプライズではなくなってきたということをあげておきたいと思います。現代経済において19世紀の経済よりもゼロインフレや緩やかなデフレが危険である可能性が高まった理由の一つとして、現代経済では「物価上昇が当たり前」という状況にあったことがあげられます11。
最近、賃金の下方硬直性がみられなくなった理由の候補として「賃下げはめったに起こらないという社会規範」が徐々に崩壊して現在に至っているからという解釈があり得るとの指摘もあります12。実際、日本においては物価についての目線が低く、かつ競争の激しい社会のなかで、物価上昇や賃上げが当たり前という経済にはなかなか戻らないのではないかと思います。
このように物価を巡る環境の変化をみてきますと、のりしろの確保を優先し過ぎることは適当ではないと考えられます。スイスでの最近の経験は、一時的にインフレ率がマイナスになったとしてもそれが経済に大きな影響を与えるとは限らないことを示しています。バーナンキFRB議長も経済へのコストという観点からは物価の変化率がプラスからマイナスになっても大きな段差があるわけではないと述べています13。ホワイトBIS金融経済局長は、デフレを回避するための積極的かつ持続的な金融緩和が、実体経済のブームとともに、債務残高、資産残高などの金融面の不均衡をもたらし、これらの不均衡の累積が、ブームの破裂後に深刻な不況・デフレをもたらす可能性があると述べ、デフレを回避しようとすることに対する近年の関心は強すぎるのかもしれないと述べています14。
以上のようにバイアスやのりしろについてはプラスであるものの、かつてよりも下がっているととらえています。それを考慮にいれると、私の物価安定の理解の中央値はプラスであるもののかなり低めということになります。もちろん私の物価安定の理解にかかる数字は国民の物価観に依存しますので、インフレ率が上方に変化していったときにそれを国民がどう捉えるかによって数字を調整する可能性があることを指摘しておきたいと思います。
ただ、世界のインフレ率は低下傾向にあります(図表17)。その背景にはグローバル化という共通要因があることは否めません。もちろん今後については、国際商品市況高が新興国経済の台頭により持続し得ますので、インフレ率への影響は競争激化と国際商品市況高の綱引きになり定かではありませんが、グローバルにみてインフレ率は低くなっていくあるいは低位安定する可能性も否定できません15。
- 7詳しくは、Bernanke B.S.(2003) "An Unwelcome Fall in Inflation?", Before the Economics Roundtable, University of California, San Diego, La Jolla, Californiaをご参照ください。
- 8詳しくは、白塚重典「望ましい物価上昇率とは何か?:物価安定のメリットに関する理論的・実証的議論の整理」、日本銀行金融研究所『金融研究』第20巻第1号(2001年1月発行)、須田美矢子「デフレと金融政策」(大分大学および東北大学における特別講義< 2003年7月2日>)や武藤敏郎「「物価の安定」と中央銀行の責務」(経済倶楽部における講演要旨<2005年12月 2日>)などをご参照ください。
- 9構造問題の進展については、須田美矢子「日本経済の現状・先行きと構造調整」(山口県金融経済懇談会における挨拶要旨<2004年10月6日>)、構造問題に対する分析は、翁邦雄・白塚重典「資産価格変動、構造調整と持続的成長:わが国の1980年代後半以降の経験」、日本銀行金融研究所『金融研究』第23巻第4号(2004年12月発行)や前田栄治・肥後雅博・西崎健司「わが国の『経済構造調整』についての一考察」、『日本銀行調査月報』、2001年7月号をご参照ください。
- 10時間軸効果を含めた量的緩和政策の実証分析については、鵜飼博史、「量的緩和政策の効果:実証研究のサーベイ」、『日本銀行ワーキングペーパーシリーズ』、No.06-J-14(2006年7月)をご参照ください。
- 11詳しくは、Bernanke B.S.(2000) "Japan's Financial Crisis and Its Parallels to U.S. Experience", edited by Ryoichi Mikitani and Adam S. Posen, Special Report 13 IIE 2000(三木谷良一・アダム.S.ポーゼン編、清水啓典監訳「日本の金融危機」東洋経済新報社<2001年8月>をご参照ください。
- 12詳しくは、黒田祥子・山本勲「なぜ名目賃金には下方硬直性があり、わが国ではその度合いが小さいのか?:行動経済学と労働市場特性・マクロ経済環境の違いによる説明」、日本銀行金融研究所『金融研究』第24巻第4号(2005年12月発行)をご参照ください。そこでは90年代末以降の名目賃金調整の解釈に、長引く景気低迷という大きなショックに対する一度限りの大規模な名目賃金調整が緊急避難的に発生したものであるというもう一つの仮説も示されている。
- 13詳しくは、Bernanke B.S.(2003) "An Unwelcome Fall in Inflation?", Before the Economics Roundtable, University of California, San Diego, La Jolla, Californiaをご参照ください。
- 14詳しくは、White, R. William, "Is Price Stability Enough?" BIS Working Papers, 2006, No. 205.をご参照ください。
- 15 世界的なディスインフレの要因分析については、森本喜和・平田渉・加藤涼、「世界的なディスインフレ」、『日本銀行調査月報』、2003年5月号をご参照ください。また、IMF World Economic Outlook, 第三章"How Has Globalization Affected Inflation?"(2005年4月)では、過去10年間において、グローバリゼーションが石油を除く輸入品価格を通じて先進国の物価上昇率を平均で年0.25%ポイント低下させたと分析しています。但し、グローバライゼーションが向こう1、2年の低インフレを保証するものではないとも指摘しています。また、コーンFRB副議長は、インフレーションは究極的には金融現象であるが、グローバライゼーションが米国のインフレに何らかの下方圧力を与えたとみるのは自然だが、その大きさについては不確かだと述べています。詳しくは、Kohn, Donald L. "The Effects of Globalization on Inflation and Their Implication for Monetary Policy"(2006年6月)をご参照ください。
インフレ率への政策反応度合い
「中長期的な物価安定の理解」を念頭において、2つの「柱」に基づいて経済・物価情勢を点検して、金融政策を運営していくという今回導入した枠組みの全体としての理解を深めるために、テイラールール—─均衡金利水準を念頭に置いて、物価安定(インフレ目標)からの乖離と需給ギャップの2つを観察しながら政策金利を決定するルール—─と対比させつつ、この新たな枠組みについて少し述べておきたいと思います16。
まず日本銀行の金融政策の目的は、「物価の安定を図ることを通じて国民の健全な発展に資する」ということですが、物価安定が大事なのは持続的な経済成長にとって不可欠の前提条件だからです。グリーンスパン前FRB議長も金融政策の目的は持続的な経済成長の最大化にあり、物価安定はそのための必要条件であると述べています17。そのような目的を実現するためにインフレ率と需給ギャップの両方をみていくことは理にかなっているといえます。なお、実際の政策は単純なルールに基づいて行われるほど簡単ではありませんし、テイラールールが必要とする需給ギャップはリアルタイムに把握することは困難ですので、ここでの話はあくまで概念的な整理ということでしかありません。
過去の日本銀行の金融政策についてテイラールールをベンチマークにして評価することはしばしば行われてきました。その際、目標インフレ率は過去のトレンドから導いたり、テイラールールを当てはめてそれから逆算して求めたりするなど、各々の論者が独自に決めた数値を割り当てるということが行なわれてきました18。今回、「中長期的な物価安定の理解」を公表することで、金融政策決定者である9人の政策委員がそこから大きく外れれば中長期的にみて物価安定ではないとみている範囲が示されたということから、インフレ率のトレンドで物価目標を代替するというようなことはせず、「理解」を「目標」とみたてることで、テイラールールとの対比がしやすくなったといえます。
ただ、新しい枠組みでは、私どもがだしている1~2年後の物価見通しや足許の数字と「目標」との乖離が生じれば、それに機械的に対応する、という解釈があるとしたら、それは正しくはありません。私どもの物価安定の理解は中長期的なものですから、その先の物価動向についてリスクを把握し物価安定が阻害されるリスクが高まればそれに対して政策対応するということが第二の「柱」として組み込まれています。このように私どもは中長期的な物価安定の重要性を意識しています。そうした認識が高まった背景の一つにはバブルのときの経験があります19。
次に目標からの乖離に対する政策反応度合いについてですが、量的緩和政策のときには消費者物価が安定的にゼロ%以上になると見込まれるまでその政策を継続すると約束していたため、量的緩和政策からの解除が視野に入るようになってからは、物価動向に主として焦点があたっていました。しかし、量的緩和政策を解除した後は、テイラールール的に解釈すれば、物価安定と需給ギャップの両方に配慮するという普遍的な政策運営に戻ったということです。OECDの対日審査のように、消費者物価コアインフレが1%といったような大きさになるまで次の政策変更は待ったほうがよいというような評価は、需給ギャップについて不確実性があるからという面があるにしても、依然として物価に重点をおきすぎているように思います20。新たな枠組みのもとでこのように景気に対する配慮が弱いと誤認されると、期待と現実との間にギャップが発生し、それが新たなショックとなって経済が不安定化しかねません。今後とも新たな金融政策の枠組みのもとでの目標は「物価安定を通じた持続的な成長」ではありますが、それを実現するために実際の政策判断においては物価指数偏重ではないことをしっかりと理解していただく必要があると思っています。
なお、物価安定と需給均衡からの乖離に対する反応の強さの度合いについては、政策担当者によって異なります。どのように反応するかは、政策担当者自身の選好にも経済構造についての考え方にも依存するからです21。米国において金融政策の先行きが不透明だといわれる原因はバーナンキ新議長が物価上昇と景気減速にあってどちらを重視する性向があるのかまだみえないことも一因であるように思います。当面の物価上昇率のみではなく、私の場合は、中長期的な物価の安定という観点も含めて景気にも十分大きなウェイトを与えて判断していきたいと思います。もちろん実際に政策を行う場合にどちらを重視するかは目標からのギャップの大きさにも依存することになりますので、その時々の経済・物価情勢によって異なります。
また、政策の反応度合いは政策担当者が急激な金利調整を避けたいと思うかどうかにもかかわってきます。私は、不確実性の高い経済環境にあっては漸進主義の考え方が有用ですが、同時にビハインド・ザ・カーブに陥らない程度に金利調整を進めていくことも必要であると思っています22。
- 16テイラールールなど金融政策ルールについては、詳しくは、小田信之・永幡崇、「金融政策ルールと中央銀行の政策運営」、『日銀レビュー』、2005-J-13(2005年8月)をご参照ください。
- 17Alan Greenspan, Closing Remarks at a symposium sponsored by the Federal Reserve Bank of Kansas City Aug. 2005をご参照下さい。
- 18トレンドから導いている例としては、地主敏樹・黒木祥弘・宮尾龍蔵、「1980年代以降の日本の金融政策:政策対応の遅れとその理由」(三木谷良一・アダム.S.ポーゼン編、清水啓典監訳「日本の金融危機」東洋経済新報社<2001年8月>)、テイラールールを当てはめて逆算して求めている例としては、Volatility Ben Bernanke and Mark Gertler Monetary Policy and Asset Price 1999、Symposium :New Challenges for Monetary Policy Federal Reserve Bank of Kansas City、適度な値をいくつか用いているケースとしては、小田信之・永幡崇、「金融政策ルールと中央銀行の政策運営」、『日銀レビュー』、2005-J-13(2005年8月)などがあります。
- 19中央銀行にとってバブルの経験から得られる最大の教訓は、経済が抱えるリスクを極力、潜在的段階で把握する「先行きを展望した(forward-looking)金融政策」の重要性であるとし、物価安定や金融システムが損なわれるリスクを中長期的な観点から認識する努力が非常に重要であるとの指摘があります。詳しくは、翁邦雄・白川方明・白塚重典、「資産価格バブルと金融政策:1980年代後半の日本の経験とその教訓」、『日本銀行金融研究所ディスカッション・ペーパー・シリーズ』、2000-J-11(2000年5月)をご参照ください。なお、ホワイトBIS金融経済局長も、前述のペーパーで政策の時間的視野を1~2年から延長すべきであり、深刻な不均衡に対しては政策担当者に誘引を与えて、仮に足許でインフレ目標値を下回ることが生じたとしても、将来発生しうる金融面の不均衡に対処しようとする意図を公の場で説明させるべきであると述べています。
- 20詳しくは、OECD「Economic Surveys JAPAN」(2006年7月)をご参照ください。
- 21反応度合いは経済構造パラメータや民間と中央銀行の情報の非対称性などにも依存します。経済パラメータとの関係については、例えば、木村武・藤原一平・黒住卓司、「社会の経済厚生と金融政策の目的」、『日銀レビュー』、2005-J-9(2005年5月)をご参照ください。
- 22詳しくは、須田美矢子「日本経済の現状・先行きと構造調整」(山口県金融経済懇談会における挨拶要旨<2004年10月6日>)をご参照ください。
当面の金融政策
さて、当面の金融政策についてですが、先程申し上げた、2つの「柱」による点検をしますと、まず、第1の「柱」である先行き2年間の経済・物価情勢について最も蓋然性が高いと判断される見通しについては、わが国経済は、物価安定のもとでの持続的な成長を実現していく可能性が高いと判断しています。
さらに第2の「柱」である金融政策運営という観点から重視すべきリスクについては、企業の収益率が改善し、物価情勢も一頃に比べ好転している状況下、金融政策面からの刺激効果は次第に強まってきています(図表18)。このような状況のもとで、これまでの政策金利水準を維持し続けると、需給ギャップの水準がプラスの方向に向いていることから、中長期的にみると、経済活動の振幅が大きくなり、ひいては物価上昇率も大きく変動するリスクがあります。一方、経済活動や物価上昇率が下振れした場合でも、経済・物価情勢を見極めながらゆっくりとした金利調整を行うであれば、金融システムの安定が回復し、設備、雇用、債務の過剰が解消されてきていることなどから、物価下落と景気悪化の悪循環が発生するリスクは小さいと考えています。
こうしたことを踏まえて、当面の金融政策の運営方針ですが、先日、無担保コールレート(オーバーナイト物)の金利目標を0.25%前後に変更しました。今後も物価の上昇圧力が抑制されたもとでのバランスのとれた持続的な成長という展望レポートのシナリオにそって経済物価情勢が展開していくと見込まれるのであれば、経済・物価情勢の変化に応じて、徐々に金利水準の調整を行うことになると考えています。もっとも、この場合においても、極めて低い金利水準による緩和的な金融環境が当面維持される可能性が高いと判断しています。
ただ、敢えて申し上げるようなことでもないのですが、具体的に、いつ、どの程度の幅で政策変更を行うのかは、あくまで今後の経済・物価情勢次第であり、現時点で「中立金利」のような目安やいつまでにそれを達成すべきかといった具体的なシナリオ等を持ち合わせているわけではなく、何らの予断も持っていません。毎月の金融政策決定会合において、その時々の経済・物価情勢を丹念に検証し、それを踏まえて政策を決定していきたいと考えております。
なお、皆様に馴染みの深い「公定歩合」について少し触れておきたいと思います。皆様が「金融政策の変更」と聞いて思い浮かぶのは、「公定歩合の引き上げ・引き下げ」だと思います。一般的には、「公定歩合の引き上げ・引き下げ」が「利上げ・利下げ」と同義と思われてきました。もっとも、現在の「公定歩合」は、過去とは異なり、一般的な預金や貸出の金利の基準ではありません。過去に「公定歩合」が担っていた役割は、「無担保コールレート(オーバーナイト物)」という市場金利が担っており、これを日本銀行が売買の当事者となって市場で資金の供給や吸収を行うこと──オペレーション(公開市場操作)──によって調節しています。今回の政策変更では、この金融政策の「主役」である「無担保コールレート(オーバーナイト物)」の誘導目標を「概ねゼロ%」から「0.25%前後」に変更したということです。
では、「公定歩合」はどうなったのでしょうか。現在の「公定歩合」は、各金融機関があらかじめ日本銀行に差し入れている担保の範囲内で、日本銀行から各金融機関が自らの意思で資金を借りる「補完貸付制度」における金融機関の借入金利(=「基準貸付利率」)と同義です。そもそもこの「補完貸付制度」は、期末日や何らかのショックに伴い金利がハネ上がった場合に、金融機関は市場から高い金利の資金を調達するのではなく、予め定められた借入金利で日本銀行から資金調達を可能とすることで、コールレートの一層のハネ上がりを抑制し、金利変動を安定化させることを企図して設けられた制度です。従いまして、「基準貸付利率」は、「無担保コールレート(オーバーナイト物)」の誘導目標より高めに設定されています。
この「基準貸付利率」と「無担保コールレート(オーバーナイト物)」の誘導目標との差が小幅に設定されますと、他の市場の金利が上昇した際に、当日に予めレートが決められている「補完貸付」を利用した鞘抜き取引が可能となる場合もあります。現在は利用日数に制限がないため、原則として借り手である各金融機関が営業日毎に必要に応じて補完貸付を利用することができますので、利用が多額になる可能性もあります。その場合、「金融調節の一層の円滑化を図る」という補完貸付制度の趣旨が生かされなくなる可能性もあります。通常、日本銀行は、オペレーションを実施することによって金融機関が日本銀行に積まなければならない準備預金残高をコントロールし、無担保コールレートの誘導を行っています。補完貸付の利用が多ければ、私ども日本銀行が資金供給する上で受身にならざるを得ないだけでなく、能動的に行うオペレーションの影響力が薄れてしまう可能性もあります。
以上のようなことを踏まえ、私が従来から申し上げている「市場機能の重視」と「市場の安定性の確保」とを両立させるためには、「無担保コールレート(オーバーナイト物)」の誘導目標と補完貸付の「基準貸付金利」の間にある程度の差を設ける必要があると考えております。その差が小さい場合、短期金融市場のレートの振れの中で、補完貸付の利用機会が増えれば、市場参加者のうち潜在的な資金の出し手の行動を制約することにつながるかもしれません。因みに、今回の政策変更では、「無担保コールレート(オーバーナイト物)」が「概ねゼロ%」から「0.25%前後」に変更されたと同時に、「基準貸付金利」は「0.1%」から「0.4%」に変更されましたが、市場機能の回復に伴い市場自らの力で市場の安定を確保できるようになれば、補完貸付制度については、市場における自由な金利形成を阻害しないようなものにしていくべきだと考えています。
4.おわりに
最後に、当地で金融経済懇談会を開催するにあたって、事前の勉強等を通じて、いくつか感じたことをお話したいと思います。
兵庫県経済の現状をみますと、輸出が好調を持続しているほか、設備投資も拡大するなど、県内経済への影響が大きい製造業が主導するかたちで、全体としては緩やかに拡大しています。先般私どもの神戸支店が公表した兵庫県内の6月短観の結果をみますと、業況判断DIは、製造業、非製造業、全産業の各ベースとも、1991年から1992年以来の高水準となっており、全国と比べてもむしろ景気の腰はしっかりしているように見受けられます。また、雇用・所得環境が改善するもとで、個人消費も底堅く推移しています。
もっとも、やや仔細にみますと、建設・小売等の非製造業や地場産業の中小企業などではなお厳しい業況が続いているなど、景気回復・拡大に伴う改善度合いが一様ではないのも事実です。私は、今後幅広い主体が景気回復・拡大の流れを捉え、兵庫県経済が一層の拡大を実現していく上で鍵となるのは、各産業、企業等において「企業家精神」を発揮し、社会構造の変化や消費者ニーズの多様化等をきめ細かく捉えつつ、新しい成長の芽を創造し、育んでいくようチャレンジし続けることであると考えます。
改めて兵庫県の産業基盤を点検してみますと、これほど多彩な顔を持つ地域は全国的にも珍しく、それだけに今後の成長の「芽」が育つ余地も大きいように思います。兵庫県は、日本のほぼ中央に位置し、日本海側から瀬戸内海を経て太平洋に至る変化に富んだ県土には、異国情緒に溢れ、ファッションやスイーツの町としても名高い神戸を筆頭に、ユネスコの世界文化遺産にも登録された国宝・姫路城のほか、有馬温泉や城崎温泉などの多彩な観光資源が多数点在しています。さらに、「神戸ビーフ」、「灘の清酒」、「明石のタコ」、「丹波の黒豆」など全国ブランドの特産物の宝庫でもあります。
一方、兵庫県は、近畿経済圏の中心に近い好立地に位置し、港湾や高速道路網、さらには新設の空港などのインフラに恵まれた、全国有数の工業県でもあります。もともと、鉄鋼や造船、重機に代表される重厚長大産業をはじめ、食料品、電気機械、金属など多様な業種の製造業が集積している地域ではありますが、さらに、製造業の設備投資の国内回帰の動きの中で、県内でも、薄型ディスプレイの大型案件をはじめ、このところ幅広い業種で工場設備の投資が増加しています。経済産業省が発表している「工場立地動向調査」をみても、都道府県別立地件数において兵庫県はここ数年常に全国トップクラスに位置しています。また、大都市に隣接する当地では、物流拠点の建設も近年盛んに行われています。
さらに、忘れてならないのは、この地が古くから進取の気性に富んだ土地柄として知られる点です。神戸港の開港以来、港を中心として数多くの企業が国内外から進出してきましたし、日本を代表する企業が数多く育っていきました。現在当地では、産学官の連携のもと、「神戸医療産業都市」や「播磨科学公園都市」などの先駆的なプロジェクトを通じて、知的クラスターの形成が進みつつあります。是非とも、明治以来の「進取の気性」、「企業家精神」を再び発揮していただき、日本の明日を切り拓く新たな動きが、兵庫県から出てくることを願って止みません。
当地におかれましては、1995年初の阪神・淡路大震災により、多くの方々の尊い生命が失われ、10兆円規模の資産が破壊されました。しかしながら、その後、市民の皆様をはじめ、県・市等の行政、産業界のご努力によって見事な復興を遂げられました。震災から10年でこれほどの復興を成し遂げられた兵庫県経済の底力をもってすれば、なお改革の途上にある日本経済のフロントランナーとしてさらなる飛躍の途を辿ることも大いに期待できると信じています。
私の話はこのくらいにしまして挨拶とさせていただき、皆様方との意見交換に移らせていただきたいと存じます。ご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。
以上
BOX
「生活意識に関するアンケート調査」の分析
- 「生活意識に関するアンケート調査」においては、2004年3月調査より、インフレ率について、「1年前比」(物価は1年前と比べてどのように変わったと感じていますか)、「1年後予想」(1年後の物価は、現在と比べるとどうなると思いますか)、「5年後予想」(これから5年間で物価は、現在と比べるとどうなると思いますか)の数値(インフレ率)も回答していただくようになりましたが、今回、個別データ等も用いて、若干の分析を実施しました(BOX図表1~5)。
- まず、物価が「1年前比」で「ほとんど変わっていない」、「1年後予想」で「ほとんど変わらないと思う」と回答した人と具体的なインフレ率について「ゼロ%」と回答した人を比べてみますと、物価が「ほとんど変わっていない」、「ほとんど変わらないと思う」と回答した人の中に、「ゼロ%」以外のインフレ率を回答した人もおられましたが、ほとんどの人は、「ほとんど変わっていない」、「ほとんど変わらないと思う」=「ゼロ%」でした。例えば、直近の2006年6月調査であれば、「1年前比」の物価について、「ほとんど変わっていない」と回答した人が全体の49.1%、このうち全体で見て45.0%——つまり、「ほとんど変わっていない」と回答した人の9割以上——が、「1年前比」のインフレ率が「ゼロ%」であると回答しています。物価上昇が認識され始めた足許の2006年6月調査を除き、2004年3月の調査以降、2006年3月の調査までは、半分以上の人が、「1年前比」の物価について「ほとんど変わっていない」と回答したうえ、インフレ率は「ゼロ%」であると回答しています(BOX図表1の白抜き部分)。
- また、「生活意識に関するアンケート調査」に寄せられた具体的な「1年前比」および「1年後予想」のインフレ率の具体的な数値をみると、「前年に比べ-50%も物価が下落した」とか、「1年後は+50%も物価が上昇すると思う」といった多少現実離れした回答値がかなりみられます(BOX図表2~5)。因みに、過去20年間の消費者物価の変動率は、もっとも上昇したときが+4.0%、もっとも下落したときが-1.6%でした。これに対して、「生活意識に関するアンケート調査」では、「極端な値を排除するために上下各々0.5%のサンプルを除いて計算した平均値」と全サンプルの平均値を公表しておりますが、これでは過去のインフレ率の経験値に比べ「極端な値」が十分に排除されているとは言えません(公表値はBOX図表2~5の白抜き部分)。そこで、上下各々2.5%、同5%、同10%と順次、上下の「極端な値」を刈り込んでみましたが、その結果、2006年3月および6月の調査における「1年前比」と「1年後予想」のインフレ率の全てにおいて、人々の回答を平均したインフレ率が低下しました(BOX図表2~5のシャドー部分)。また、過去のインフレ率の経験値を踏まえ、「+4%」以上の回答値を全て「+4%」、「-1.6%」以下の回答値を全て「-1.6%」とみなして平均値を算出しますと、2006年3月調査の「1年前比」が「+1.3%」から「+0.8」に、「1年後予想」が「+2.1%」から「+1.3%」に、6月調査の「1年前比」が「+2.5%」から「+1.3%」に、「1年後予想」が「+3.8%」から「+2.1%」に各々低下します(BOX図表2~5の再下段)。こうしたことを勘案すると、公表されているアンケート結果で示されたインフレ率は、実際のインフレ率に対してレベルとしては高すぎると思われます。