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長野県金融経済懇談会における西村清彦審議委員挨拶要旨
2006年12月6日
日本銀行
目次
1.はじめに
本日は、長野県の行政および経済界を代表される皆様の出席を賜り、懇談の機会を得ましたことを大変光栄に存じます。
日頃は、松永支店長をはじめ日本銀行松本支店および長野事務所が大変お世話になり、誠に有り難うございます。松本支店が大正3年に開設されて以来90年余、長野事務所が昭和20年に設置されて以来60年余という長きにわたって支店・事務所活動を継続できましたのも、本日ご臨席の皆様をはじめとする地元の方々のご支援・ご理解の賜物と感謝しております。厚くお礼申し上げるとともに、今後ともよろしくご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。
私が日本銀行政策委員会審議委員に就任してから、一年半余りが経過しました。この間、本年3月の量的緩和解除、7月のゼロ金利解除という二つの大きな政策転換の場に立ち会うこととなりました。この二つの政策転換において、1998年の新日銀法で確立された政策委員会による金融政策決定プロセスが、有効に機能したと思っております。他方、この政策委員会による金融政策決定プロセスの意味は、まだ十分に広く理解されているとは言えないきらいがあるようです。そこで、本日はまず、日本銀行政策委員会が金融政策決定会合でどのように金融政策を決定しているかを述べ、それが我々の直面するかつてない不確実性に対処するのに有効であることを、簡単に説明したいと思います。その上で、最近の国内外の経済情勢と先行きの見通しおよび金融政策運営に関して報告した後で、皆様から当地の金融経済情勢や日本銀行の金融政策についてのご意見などをお聞かせ頂ければと存じます。
2.政策委員会と金融政策:委員会方式の意味
現在の日本銀行における金融政策の決定方法は、新しい形の政策決定プロセスです。一言で言うと、政策委員会という民主的な委員会方式に基づいており、金融政策決定会合において一人一票の投票による多数決で金融政策が決定されます。政策委員会は、総裁、副総裁二名、審議委員六名の政策委員から構成されています。総裁は政策委員会の議長として政策委員会を代表する重要な役割を担っていますが、政策決定の場では他の政策委員と同じく一票を有するのみです。時々、総裁が金融政策を一人で決定しているかのような報道がなされることがありますが、これは正しくありません。日本の金融政策を担っているのは、政策委員会なのです。
それでは、金融政策が金融政策決定会合の場でどのように決定されるのかについて、簡単に説明します。日本銀行の行内各局(企画局、金融市場局、調査統計局、国際局等)は、様々な調査情報、統計分析、モデル分析の結果等を政策委員会に常時提供しています。他方で、産業界、金融界、学界等様々なバックグラウンドを有する政策委員会の各メンバー(政策委員)は、それぞれのバックグラウンドに応じて独自に情報を収集・分析しています。各政策委員は自らの情報・分析と行内各局からの調査情報等を合わせて、金融経済情勢の現状を判断しかつ先行きの見通しを立てます。そして、金融政策決定会合において、それぞれの現状判断と見通しを相互に披瀝しながら、適切な判断を目指して討議します。その際に、追加的に行内各局の判断を求めることもありますし、政府の会合出席者も意見を開陳します。討議の場では厳しいやりとりが多いですが、時には巧まざるユーモアで思わず場が爆笑するという時もあります。最後に、金融経済情勢についての政策委員会としての見解と、次回会合までの金融政策運営方針が投票にかけられます。各政策委員は、両者について提案することができます。ここで、各政策委員は、討議を踏まえて自分の見解と判断を再考し、提案された案について投票します。その結果、政策委員の過半数の賛成を得た案が、政策委員会の決定事項となるわけです1。こうした金融政策決定会合での発言は逐語記録されており、議事要旨は次回または次々回会合の3営業日後に公表され、逐語記録である議事録は10年を経て公開されることになっています。
こうした日本の金融政策決定方式は、三つの含意を持っています(この点は日本銀行のホームページに掲載されているスウェーデン・ウプサラ大学での私の英語講演で詳しく説明しております)。
第一に、様々なバックグラウンドを持った政策委員が金融政策に携わっていることです。現在の日本、そして世界の経済の状況は大きく変化しつつあり、金融市場も例外ではありません。産業、金融の両面で、従来想像し得なかったイノベーションが起こりつつあります。こうした中では、金融政策も従来の金融の枠を超えた様々な見方や情報、専門知識が必要になります。多様なバックグラウンドを持つ政策委員が独自に情報を収集・分析し、それを各局にフィードバックすることは、日本銀行内のダイナミズムを維持し情報分析の幅を広げる点で望ましいと考えられます。もっとも、そうしたシナジーが機能するためには、各政策委員が常に独自に新しい情報を収集し、分析する努力が必要であることは言うまでもありません。この点は、政策委員の一人として、心しなければならないと気を引き締めております。
第二に、多様な政策委員から構成される民主的な委員会方式であることから、政策委員会の中で異なる見解が併存するのが通常であることです。政策委員会の決定過程では、様々な見解を持つ政策委員が討議を通じて自分の見解を再考しながら、ぎりぎりの判断をしています。従って、たとえ決定が全員一致であったとしても、それは必ずしも政策委員会が一枚岩のように同じ見方にあることを意味するわけではありません。決定そのものもさることながら、議事要旨に見られる討議のプロセスが重要であることは言うまでもないと思います。こうした多様な見方の併存を許す現在の仕組みは、金融経済情勢が大きく変動しかつ不確実性の高い現在の状況に対処するに十分な伸縮性を与えていると思います。
第三に、多数決により決定がなされる民主的な委員会方式である点から、「政策委員会」としての決定と各政策委員の個人的な見解を区別する必要があることです。過去には個々の政策委員の個人的な見解を政策委員会の今後の決定に結びつける類の報道を散見しましたが、これは政策決定プロセスがまだ十分に理解されていなかったためだと思います。ただし、総裁が政策委員会の議長として発言する場合は、この点で他の政策委員とは異なる重みを持つことは言うまでもありません。また民主的なプロセスでは、過半数の賛成に基づいて決定が行われますが、少数意見も尊重されなければなりません。
この政策委員会を基本とする金融政策の決定プロセスは、新日銀法の施行以来八年を経過し、理解も徐々には進みつつあると思います。しかし、この「民主的な委員会」プロセスは、常に自己点検と改善が必要です。これからも様々なご批判等を頂きながら、上記の努力を続けていかなければならないと思っています。
- 1このようにして決定された金融経済情勢についての見解および次回会合までの金融政策運営方針は、それぞれ「金融経済月報(基本的見解)」、「当面の金融政策運営について」として対外的に公表されます。
3.最近の経済情勢と今後の見通し:「高まる不確実性」の吟味
それでは、最近の経済情勢と今後の見通しについて、説明したいと思います。私の見方を一言で申し上げると、不確実性が高まっているということです。特に、将来の見通しだけでなく現状の把握についても、様々な不確定要素が存在し慎重な判断が必要な状況にあると思います。
将来の見通しはともかく、現状の把握にも不確実性が高まっているということは奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、経済指標には一過性の特殊要因や誤差がつきものであり、真の経済の姿は実はかなり時間を経てみないとわからないのが通常です。最近の様々な経済データを見ると、この特殊要因や誤差による指標の振れが大きくなっているように見受けられます。この点にも留意しながら、最近の経済情勢と先行きについての私の見方を述べたいと思います。
展望レポートに沿って
日本銀行では、先行き1年から2年の経済・物価情勢について、実現性が高いと思われる「見通し」を毎年2回(4月と10月)作成します。これがいわゆる「展望レポート」で、正確には「経済・物価情勢の展望」と申します。いわば経済というドラマがこう展開するだろうと思われる「シナリオ(筋書き)」といって良いでしょう。ただ、経済は必ずしも、テレビ・ドラマのようにシナリオ通りに推移するとは限りません。そこで「展望レポート」では、最も実現性が高いシナリオとして「経済・物価情勢の見通し」を公表するとともに、このメインシナリオからはずれていくリスクも「上振れ・下振れ要因」として挙げています。日本銀行では、10月31日に、新しい「展望レポート」を公表しました。それから1ヶ月余が経過しましたので、まず、展望レポートの「見通し」と「上振れ・下振れ要因」に沿い、その後の経済活動の動きを加味しながら、日本経済の現状と今後を見ていくことにしたいと思います。
「見通し」では、まず全体感として、わが国経済は緩やかに拡大しているとしています。すなわち半年前(4月)の展望レポートと比べると、「企業部門は幾分強め、家計部門は幾分弱めとなっているが、全体として概ね見通しに沿って推移している」と見ています。更に、先行き2006年度後半から2007年度を展望しても、「内需と外需がともに増加し、企業部門から家計部門への波及が進むもとで、息の長い拡大を続ける」と予想しています。このように、わが国経済は天候要因など短期的な要因で振れを生じる可能性はありますが、大きな流れとしては今後も緩やかな拡大を続けるというのがメインシナリオつまり「本流の筋書き」です。
しかし、経済が「見通し」通りに推移することを妨げる可能性(リスク要因)もあります。その中で重要と思われるものを「上振れ、下振れ要因」として示しています。海外経済の動向では、米国経済の動向、特に住宅価格の推移と住宅建設の動向は、大きな不確実性があります。その他中国経済の動きや原油価格をはじめとする国際商品市況も、状況如何では、世界経済の先行きに影響を与える可能性があります。こうした海外経済の動向次第では、わが国の輸出や生産は上振れ・下振れいずれの可能性もあるほか、海外需要の増大を意識している設備投資行動にも影響を及ぼし得ると考えられます。その他、国内では設備投資や資産価格の動きについても、現在のところ懸念すべき兆候はありませんが、過度な積極化が起こるリスクは十分に注意する必要があるとしています。
これに加えて、私は個人消費の状況にも注意する必要があると考えています。10月展望レポートでも、上記のように家計部門は幾分弱めと評価しています。また、展望レポートを決定した金融政策決定会合(10月31日)の約二週間前に開催された会合(10月12、13日)の議事要旨を見ると、当時の個人消費統計を踏まえて、個人消費は増加基調にあるという認識を共有しつつも、複数の委員は「消費者コンフィデンスの足踏みや消費における高額品と安値品の二極化進行などを挙げながら、企業部門の好調さが家計部門へ波及するスピードは比較的ゆっくりとしたものであり、個人消費は着実に増加しているが、力強く増加しているとまでは言えない」と懸念を表明しています。こうした懸念は、その後発表された9月期の家計調査報告の消費支出データが大きくマイナスに振れたことから、注目されています2。
最初に述べたように、私は「上振れ、下振れ要因」に係る不確実性は高まっていると見ています。これら不確実性は米国住宅市場と日本の個人消費に係るものに止まるわけではありませんが、本日は特に最近重要視されているこの二つに絞って、それぞれの不確実性を吟味したいと思います。
私は日本銀行政策委員会審議委員に就任する前、学者として長く住宅市場を含む内外の不動産市場、そして個人消費のミクロの動きについても興味を持ち研究して参りました(例えば、不動産市場では『不動産市場の経済分析』という学術書を編著していますし、消費の動きでは『「価格革命」のマクロ経済学』、『日本経済 見えざる構造転換』という一連の著作で扱っております)。本日お話しすることは、私の学者としての視点からの独自の情報収集・分析に基づく吟味です。最初にお話しした政策委員独自の情報収集・分析の一つの例として見て頂ければ幸いです。
- 210月期の同データが12月1日に公表されましたが、マイナス幅は縮小したものの、依然として弱含んでいます。
米国住宅市場の先行き
米国で上昇を続けてきた住宅価格に大きな翳りが見え、更に今まで強かった住宅投資の減速が大きな話題となっています。住宅価格の下落が消費者の将来に対する自信を弱めて財布の紐を固くし、現在米国景気を牽引している個人消費が大きく落ち込む可能性が指摘されています。また、住宅建設の急速な落ち込みは大方の予想よりも大きく、これが景気と雇用に予想以上の悪影響を与えないか懸念されています。
とはいえ、米国での見方の主流は、住宅市場の落ち込みは大きいものの、景気全体で見るならば、ここ数四半期の減速程度で収まり、巡航速度での成長に復帰するというもの(いわゆる「reverse soft-landing」)です。私もその蓋然性が高いと思っておりますので、その理由を説明したいと思います。
まず、住宅価格上昇に大きくブレーキがかかっていることが個人消費にどのように影響するか、を見てみましょう。日本の不動産バブル崩壊の影響を米国にそのまま当てはめて考えがちですが、米国経済を理解するには地域的な多様性、そして所得・資産面での多様性を頭に入れておくことが必要です。住宅価格が急上昇したと言っても、日本のバブル期のように一斉に上昇したのではなく、地域間の差かつ物件間の差が大きいのです。
現在価格上昇の急ブレーキ更には大幅な下落が指摘されているのは、ニューヨーク市からコネティカット州にかけての東北部や南西部・ラスベガスからフェニックス、そして南東部・フロリダ州マイアミのあたりということです。また、従来価格が急上昇したのは、高所得・資産家層相手の高額物件なのです。これに対し、中堅以下の物件価格は、連邦住宅貸付機関監督局(OFHEO)が公表する価格指数で見ても、伸び率は大きく下がってきたものの今のところ目立って下落しているという状況ではありません。また、中西部には、ここ20年変化がなかったのがここに来てようやく価格が上昇し始めた地域もあります。このように、中堅以下の物件に対する実需が存在するところには、価格の大幅な下落は起きていません。例えば、カリフォルニア州は広大といっても実際に居住可能な地域は限られており、移民を中心とした需要の強さに対して、更にはゾーニング等の規制、環境規制が強くなり、供給不足の状況にあります。これを前提とすれば、現在起きている価格下落については、影響する範囲は地域的にさほど大きくなく、かつ価格下落に十分に対処可能な高所得層に限定されており、個人消費に大きな影響が直ちに生じるとは考えにくい、ということになります。
次に、住宅建設の大幅な落ち込みの行方について、考えてみます。逆説的ですが、住宅建設の大幅な落ち込みは、逆に調整が速やかに行われていることを示唆していると言えるかもしれません。その場合は、在庫調整が急速に進捗し、比較的早く回復に転じる可能性が高いということになります。従来米国では建売業者(home builder)は零細であり、住宅市場の状況にもそれほど感応的でありませんでした。このため、需要減から在庫が積み上がっても、新築物件の価格を下げて在庫処理(liquidation)を行うことなく、やがて需要が回復すると思って従来通り建設を続けることが多く、調整が長くかつ深くなるという傾向がありました。ところが、この10年程度で建売業者の合併、買収が進み、市場環境に応じて臨機応変に在庫管理がなされるようになったと言われています。現在の住宅建設の落ち込みは、こうした在庫管理の進展の結果、素早く反応している側面が大きいとされています。これを前提とすれば、こうした調整期間は比較的短いことになります。実際、新築物件の価格はかなり下落しているようであり、このため新規住宅ローン申請が増えるなど、新しい需要も出てきているように見えます。
構造変化は至るところに起こっており、米国住宅市場も例外ではありません。現在のところ、こうした構造変化は景気変動に対して自動安定化装置として機能しているようにも見えます。しかし、重要な別の動きを見落としている可能性には常に留意しなければならず、これからの米国経済の動きには十分な注意が必要であると考えています。
国内消費の「弱さ」の実態
GDP統計で7-9月期の民間最終消費支出、特に持ち家の帰属家賃を除く個人消費の伸びが大きくマイナスに転じたことが、大きな話題となりました。しかし、景気の肌感覚に感応的であると言われている内閣府の景気ウォッチャー調査を見ると、DIは50を超えて景気が回復あるいは緩やかに拡大している状況です。このような状況にもかかわらず、GDP統計については、個人消費が単に前期比若干伸び悩みという程度を超え大きく落ち込んだわけですので、その原因を精査する必要があります。
結論を先に申し上げますと、GDP統計の国内消費データの弱さの一部は、現在国内消費推計のために使われている統計が実際の個人消費の状況を十分に捉えられなくなっていることに起因しているように思います。以下では、この点について精査してみたいと思います。他方、景気の拡大にかかわらず、個人消費が全体としてみるならば相対的に弱いという部分もあることも事実です。これは、米国の長期にわたる好景気が個人消費に支えられているのと好対照である、と言えましょう。この個人消費の弱さには、ミクロ的な長期的な要素もあり、これは今後の日本の発展を考える際に重要な視点を提供しています。この点は、後ほど節を改めて考えてみたいと思います。
以前から、個人消費の一部、特にサービス関連の個人消費については、現在の統計は実態を十分に反映しきれていない可能性が指摘されており、これを供給側、需要側に分けて分析したいと思います。ただ、あらかじめお断りしておきたいことがあります。現在、統計当局は限られた資源の中で最大限の努力で統計の精度を高めようと努力されており、また、統計法の改正と官庁統計システムの新たな司令塔として統計委員会を内閣府に作る作業が進展しています。この新しい司令塔のもと、経済構造の変化に伴う新しい動きに応じつつ、一層的確に個人消費の実態を把握できるようなものとなっていくことを願う次第です。
まず供給側の統計を見てみましょう。従来の統計では、供給側で調査対象とされているのは「業態」が安定した業界で母集団がかなりの精度で特定できる品目に限定されており、「業態」が安定していない品目では調査がなされていません。後者の例としては、最近消費項目としてしばしば注目されている美容関係のサービスなどが挙げられます。また、サービスが単独でなく複合的に供給される場合は、分類が難しくなり調査が困難になります。最近はこうした複合サービスが多くなっているために、調査から漏れてしまう部分もあると考えられます。この例として、ショッピングセンターで供給される複合的なサービスが挙げられます。確かにショッピングセンターの売上の動きを見ますと、既存の百貨店、スーパー、コンビニの売上と比べて、その伸びは趨勢的に高くなっています。ショッピングセンターでは様々なサービスが供給されていることから考えると、モノの販売はあまり伸びていないものの、こうしたサービスの供給はかなり伸びていることを、この事実は示唆しています。このように、供給側の既存の統計は個人消費の伸びを過小評価している可能性があります。また、インターネットを利用した供給の伸びも、把握されていないきらいがあります。後述する家計消費状況調査によれば、インターネットによる支出総額はまだ小さいものの、コンスタントに前年同月比で25~35%伸びています。この部分については供給側の統計は捉え切れておらず、ここにおいても個人消費の伸びを過小評価している可能性が高いように思います。
次に、需要側の統計を見てみましょう。現在国内消費推計に使われる需要側の統計として最も重要な統計は、サンプル数約九千の家計調査報告です。8月、9月に需要側の消費データが大きく落ち込んだのは、この家計調査報告の消費支出額が大きく落ち込んだからです。同報告はサンプル調査であり、その数字には誤差があることも考慮して落ち込みの背景を精査するとともに、他の利用可能な様々な指標を見て、総合的に判断していく必要があるわけです。そこで、家計調査報告を補う目的で主として高額商品とITへの支出を調べるために平成15年5月より公表が開始された家計消費状況調査(サンプル数約三万世帯)の結果を参照しながら、消費の状況を見ることにします。家計消費状況調査は、総支出も調査しています。家計調査報告のように家計簿をつけて精細に支出項目をチェックすることはしていませんが、サンプル数が家計調査報告に比べて大きいため、傾向を見る上での利点があります。
家計調査報告(全国二人以上の世帯、農林漁家世帯含む、名目)の消費支出と家計消費状況調査(全国二人以上の世帯、農林漁家世帯含む、名目)の支出総額の前年同月比の推移を見てみましょう。両方とも単月で見ると振れが激しく、双方の動きは必ずしも重なりません。しかも、家計調査報告の消費支出と家計消費状況調査の支出総額の範囲が実態として必ずしも一致しないことなどからか、両者の前年同月比の水準も異なっています。しかし、2005年1月以降を見ると、両者とも名目消費は傾向として2005年後半までは上昇傾向、その後は2006年7月までは弱含みという似た姿になっています(家計調査報告の方が単月では大きな振れがあり、家計消費状況調査の比較的安定した動きと対照的です)。
他方、直近の7~9月期を見ると、両者は方向性からして大きく乖離しています。家計調査報告の消費支出では前年同月比が7月マイナス0.83%、8月マイナス3.35%、9月マイナス5.19%とマイナス幅を大きく拡大しているのに対し、家計消費状況調査の支出総額では7月プラス1.20%、8月プラス0.67%、9月プラス2.80%とプラス幅を維持かつ若干拡大しているように見えます。
内閣府では、家計調査報告を大宗としその他の統計を踏まえながら需要側の国内消費推計を行い、供給側の国内消費推計と加重平均をとり、GDP消費項目の四半期推計(QE)とします。そして、直近7~9月期の一次QEで個人消費がマイナスに大きく振れたことについて、上記の家計調査報告における消費支出の前年同期比がマイナスとなったことが影響した可能性が指摘できます。家計調査報告、家計消費状況調査のデータは詳細なレベルまで開示されていますので、両者の乖離がどこから生じているかを確認することが可能です。両者の動きは、都市地域(大都市+中都市)では大きな差はありません。両者の差は、実は農村地域(小都市+町村)と高所得層で大きくなっていることが確認できます。理由は定かではありませんが、詳細ではあってもサンプル数が少なく振れの大きい消費者サーベイ調査のデータからマクロの消費推計を行う際の留意点が明らかになっているように思います。
以上の事実は、以下のように要約できるでしょう。企業部門の好調さが家計部門へ波及するスピードは比較的ゆっくりとしたものであることは、否定できないと思います。他方、7~9月期GDP統計の民間最終消費支出の弱さは、家計調査報告に絡む特殊要因の影響による可能性もあるのではないかと思われます。また、現在のGDP統計が、革新が進み拡大が続くサービス産業の一部をうまく捉えていない可能性にも十分に配慮して、統計を使っていく必要があります。
以上述べましたように、私は、現在は不確実性が高まっている状況にあると見ています。将来についての不確実性が高まっていると同時に、「足許の経済状況がどうなのか」ということにも不確実性がつきまとっています。こうした中で、日本銀行政策委員会としては、内外で公表される様々な経済指標を精査し、これらにつきまとう誤差や歪みをできるだけ取り去り、経済指標が指し示している将来への情報を読み取っていかなければなりません。そこには、経済指標を虚心坦懐に慎重に吟味する態度が必要であることは、言うまでもありません。その上で、もう一度基本に戻って金融政策の姿を考える必要があります。
企業の設備投資行動(そして家計の耐久財購買行動)を決めているのはなにかについて、再考してみます。合理的な企業ならば、まず計画している設備が完成後に生み出す将来実質収益の(リスクを勘案した)割引現在価値を考慮します。これが実質投資収益です。他方、その設備に投資する時に負担しなければならない実質投資コストも考えます。そして、この両者の比較考量で設備投資の是非を決めるはずです(同じように合理的な家計ならば、購買を考えている耐久消費財からの将来効用を貨幣換算した実質投資収益とそれを購買するための実質投資コストの比較考量で、耐久消費財購入の是非が決められるはずです)。そして実質投資収益と実質投資コストが適度のバランスをとっていることが、中長期にわたる価格の安定と均衡のとれた成長をもたらすことになります。そして、期待物価上昇率は名目利子率とともに実質投資コストの構成要因として重要ですが、それと同様に——おそらくそれ以上に——実質投資収益率が現在どのような状況にあるかが、金融政策を考える際には重要となります。
日本経済は長い停滞の後、過去の負の遺産を乗り越えて、世界経済の成長に歩調を合わせ、技術進歩の果実をようやく実現できるようになってきています。このように日本経済が「病み上がり」の状況から次第に脱するにつれて、実質投資収益率も次第に非常に低い状態から回復しつつあると考えるのが自然と思われます。実質投資収益率は、技術的な要因や制度に左右され、ゆっくりと変化するのが通常です。これを前提とすれば、それと適度にバランスをとった望ましい実質投資コストの変化も、ゆっくりとなされる余裕があるわけです。更に、期待物価上昇率が低位で安定している状況ならば、対応する名目利子率の調整も「慎重にゆっくりと」行うことになり、またこれを可能とする余裕もあることになります。ここで「慎重にゆっくりと」というのは、なにか時間のスケールを念頭に置いているものではありません。様々な経済指標を虚心坦懐に精査し将来を見据えながら、時期々々にふさわしい調整を行っていく、ということです。
4.長期を見据えて:個人消費に目を向ける必要性
さて、今後長期を見据えると、実は個人消費に目を向ける必要があります。
現在、設備投資は比較的好調な状態にありますが、これを維持するためには投資収益率が回復を続けなければなりません。そして、既に申し上げたように、設備投資の収益は設備が生み出す将来の収益見込み、更には将来の需要見込みに依存しているわけです。現在海外需要は強く、また今後もしばらくはその強さが持続すると考えられるものの、海外需要の今後の安定した上昇については、為替の不確実性を含め多くの不確実性があります。と言うことは、設備投資の好調が持続するためには海外需要だけではなく、国内需要そしてその大宗を占める個人消費の伸びが確保されなければならないということが理解されます。
この点、先に述べたように個人消費の増加ペースが緩やかに止まることが大変気になります。というのは、足許のこの個人消費の伸び悩みは、今後成長が続くと解消される一時的な不振という要素はあるものの、より恒常的な構造的なものである可能性も否定できないからです。
所得が伸びると消費が伸びる、という経験則は、従来若年人口が多かった時に、所得の伸びは恒常所得の伸びの期待を産み、そのため将来の所得を前提とした現在の消費が伸びるという面にも依存していたと考えられます。しかし、人口が高齢化するにつれ、この種の影響は減退すると考えられます。典型的な例としては、高齢化が進めば所得が伸びたとしても、食品の売上が以前ほど伸びないことになるでしょう。
また、高齢化に伴う需要構造の変化に、供給側が追いついていけず、商品開発の遅れ、ミスマッチが起きている可能性があります。高額のサービス支出が伸びているのに全体としての支出が伸び悩んでいることは、従来の統計で捉えていた部分、食料品等必需品的なモノへの消費が減少していることを示唆しています。とすると、ミスマッチが解消しない限り、個人消費の伸びはあまり期待できない可能性があります。
更に、制度的な問題もあります。消費のライフサイクル仮説を前提とするならば、高齢者は蓄積した資産を費消して消費に回すことになります。ところが、現在こうした傾向ははっきりとは見られません。その最大の理由としては、日本の高齢者家計資産の最も重要な部分を占める住宅資産が、その流動性が低いために、うまく活用されていないのであろうと推測されます。従って、この面の「構造改革」がなされない限り、今後、個人消費の伸びは期待しにくいかもしれません。
しかし、この消費者周りの構造改革は、簡単ではないことも事実です。高齢者家計が自分の持っている住宅資産を活用し、老後の生活、特に医療に心配のない余生を送りたいと望んでいるとしましょう。つまり現在の住宅資産に蓄積された「資金」を少しずつ取り出し、それを使って老後の消費を楽しみ、そしてやがてくる医療支出にも十分な備えとしたいわけです。また、子供達にも財産の一部を相続させてやりたいと思うかもしれません。このように考えるだけで、現存する需要はきわめて多様な、業態を超え、また既存の制度・組織を超えた需要であることが理解できます。そして、現在の日本の業態や制度は、「金融は金融、不動産は不動産、医療は医療、年金は年金」という縦割りで相互に連携がなく、いかにこうした需要にうまく対処できていないかも理解できます。
例えば、「高齢者家計が住宅資産に蓄積された「資金」を少しずつ取り出す」と言う金融手法は、いわゆるreverse mortgageに相当します。実は過去にもこうした試みは金融界や一部自治体であったのですが、残念ながら頓挫してしまいました。というのは、「老後の生活、特に医療に心配のない余生」というそもそもの目的をreverse mortgageの商品設計の中心に据えることが、金融界という業界の性格上できなかったためだと思われます。「老後の生活、特に医療に心配のない余生」を送るための商品というならば、それは金融界を超えて、健康維持産業や医療産業との連携が必要ですし、更には当該家計が入居する施設を将来的には考えなければなりませんから、不動産業との連携も必要です。また、当該家計の構成員がどれだけ長生きするのかという根本的な不確実性についてもきちんと考慮に入れ、保険業との連携も必要です。国民の平均余命という観点で考えれば、そこにある不確実性は民間では吸収できない要素が残るかもしれません。その場合は、社会契約として国家が何らかの形で保証を与えることが必要になるかもしれません。こうしたことを可能にするためには、各種の制度や政府機構のあり方についても、新しい仕組みが必要となります。先ほども述べましたように、日本の将来に目を向けるならば、このような新しい仕組みをもたらす消費者周りの構造改革が必要なのは明らかだと思います。更には、そもそも資産を持たない層についての配慮も、消費という点ではその重要性を無視することはできません。
翻って考えれば、そもそも一国の経済成長は、国民の厚生を向上させることが目的であるはずです。そして国民の厚生は究極的には国民の幸福感の水準に表され、そして消費水準はその重要な要素であることは言うまでもありません。従って、目先の動きを超えた長期の日本の姿を考えるためには、もう一度「消費」に立ち戻って、何をなすべきかを考える必要があると思います。
5.終わりに
長野県は、私にとって四半世紀以上前の学生時代には、頻繁に訪れた近しい土地でした。今回、日本銀行政策委員会審議委員として、当地を訪問する機会を得たことは、なにか巡り合わせのようなものを感じます。
昨日、私は、諏訪地域で「ものづくりメッセ諏訪構想」に関連した施設や企業を視察しました。上記構想は、私が以前から提唱している「社会投資ファンド」の考えに基づく「地域再生税制」の適用対象です。上記ファンド等の詳細について、本日は説明を割愛しますが、香川県金融経済懇談会(2006年2月開催)ではかなり詳細に説明しました。その際には、上記構想も「特筆すべき例」として言及しております。このように、以前から強い関心を抱いていた先への訪問が適い、誠に嬉しく思いました。更に、訪問した企業の経営者などからお話しを伺った際には、「DNAに“進取の精神”が刷り込まれているのではないか」と思えるほど、技術開発にかける強い意気込みを目の当たりにし、心強く感じた次第です。
社会投資ファンドは、一言で言うと、地域再生に向けた「志のある投資」を可能にするスキームです。私が提唱してきたこのスキームが、当県産業が本来有している「ダイナミズム」を更なる活力に繋げるための一助として活用されていることは、嬉しい限りです。こうした企業活動と行政による環境整備が有機的に結びつくことで、高い成果を生み出し当県経済の益々の発展に資することを期待します。
ご清聴、有難うございました。
以上