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「21世紀のインド — そのダイナミズムと展望」

インド経済シンポジウムにおける福井総裁講演要旨

2007年5月28日
日本銀行

目次

はじめに

 日本銀行の福井でございます。本日は、早稲田大学インド経済研究所と日本経済新聞社の主催によるシンポジウムにお招きを頂き、誠に光栄に存じます。また、インド準備銀行のレディ総裁が臨席されていることも私の大きな喜びとするところです。といいますのも、レディ総裁はこの10年ほどの間、インド経済の目覚しい発展を支えてきた政策当局の立役者の一人であられるためです。

 インドは今日、世界で最も急速な成長を遂げつつある国の1つです。過去4年間、インドの経済成長は平均的に約8%という高い率で推移しています。この間、最近では幾つかのネガティブな外部要因 —— 例えば、米国経済の減速、原油・エネルギー価格の高騰、昨年5~6月や今年2~3月に見られた国際金融市場の動揺など —— も発生しましたが、インド経済はその都度、特段の悪影響を受けることもなく、順調に推移してきました。

 急速に成長するアジアの2つの大国 —— 言うまでもなくインドと中国のことですが —— が世界に対してかつてない大きな、そして多面的な影響を与えている事実は万人が認めるところであり、今日では多くの専門家がインドと中国を様々な観点から比較対照する試みを行っています。実際、この両国の発展に見られる類似点と相違点を研究することは興味深い問題ですが、本日は時間が限られている関係で、残念ながらそれらに深く立ち入る余裕はありません。従って、本日は、躍進と変貌を続けるインド経済について、私が注目している幾つかの点を中心にお話をしたいと思います。

インドの経済改革

 現在のトレンドを延長して考えた場合、インド経済の規模は購買力平価でみて2025年頃には日本経済を凌駕し、米国・中国に次ぐ世界第3位に達するのではないかと予想されています。また、2020年頃のインド経済は、ユーロ圏の主要国に匹敵する規模を持つに至るとの予測もあります。

 人口規模という点においても、インドの増勢には著しいものがあります。例えば、国連の予測によると、インドは2035年頃には中国を抜いて世界最大の人口を持つに至ることが展望されています。実際、人口動態という視点から見た場合、インドには注目すべき比較優位が2点あります。第1は、現在のインド国民の平均年齢が約26歳と非常に若い水準にあるという点です。第2は、インドの総人口に占める労働年齢人口の比率が、今世紀の中頃まで増加基調を続けると予測されていることです。この結果、インドの人口年齢構成は先行きもバランスの取れたピラミッド型を維持する可能性が高いとみられていますが、こうした点を踏まえ、専門家の中には「現在のインドは東南アジア諸国が高成長時代に移行する直前の状況に似ている」と指摘する声もあります。今後、インドが若く豊富な労働力を如何にして国際競争力を一段と高めていくうえでのアドバンテージに転化していくかが、中長期的にみたインド経済の帰趨を左右する1つの重要なファクターになると言っても過言ではないと思います。

 インドの躍進を示すこの種の将来シナリオには事欠かないのが現状ですが、いずれにしても、インドが国際的にみて最も注目すべき国の1つになっているという点は、まず異論のないところでしょう。

 現在のインド経済の興隆を支える基礎は、1991年の国際収支危機を受けて開始された抜本的な経済改革に求めることが出来ると思います。振り返ってみますと、1991年の経済危機は —— インドにとっては苦しい経験だったと思いますが —— 結果的に「災い転じて福となす」きっかけになったと言えるのではないでしょうか。なぜならば、この経済危機を契機に、インドは大胆かつ広範囲の改革プロセス —— これを主導したのは当時の財務大臣、そして現在は首相の地位にあるマンモハン・シン氏ですが —— に踏み出すこととなったためです。

 1990年代前半に着手された経済改革は、インド経済における競争原理を高めましたが、これが企業の生産性や収益力を向上させ、ひいては経済全体の潜在成長率の引上げにも寄与することとなりました。今日、我々が目にしているインド経済の活況の源は、この1990年代前半から着実に進められてきた経済改革にあると考えられます。因みに、本年1月には大手格付会社のスタンダード・アンド・プアーズ(S&P)がインドのソブリン格付を投資適格に引き上げました。この結果、インドの格付はS&P、ムーディーズ、フィッチの3大格付会社のいずれでみても投資適格となりましたが、これは15年ぶりとのことです。過去十数年に及ぶインドの改革努力の結実を象徴する出来事と言えるのではないでしょうか。

インド経済の好調

 冒頭に申し上げましたように、インド経済は力強い成長を続けています。これまでのところ、こうしたインド経済の高成長は主としてサービス産業 —— これは有名なコール・センターから高度なソフトウェアの設計に至るまで幅広い分野を含みますが —— の拡大によって牽引されてきました。実際、インドのGDPに占めるサービス部門の比率は5割を超える水準に達しています。また、幾つかの実証分析によれば —— もとより幅をもって見る必要はありますが —— インドのサービス部門の生産性はこの10年ほどの間に年平均で3~4%の成長を示したとの試算もあります。これは、おそらく新興市場国の中でも最速の部類に入ると言ってよいでしょう。

 この結果、今日のインドは世界的にみても競争力の高いサービス産業を誇っています。とりわけ有名なのはIT関連のサービス産業で、優秀なコンピューター科学者やエンジニアを輩出するインドは、ソフトウェア産業のアウトソース先としての地位を確固たるものにしています。例えば、米国におけるIT関連産業のオペレーションの70%はインドに移管されているとも言われています。

 しかし、最近の状況に目を転じると、インド経済の成長がより裾野を広げている点も見逃せません。すなわち、先ほど述べた経済改革の成果が実る形で、インドの製造業も競争力や収益力を大きく高めており、最近では2桁の成長を示しています。この結果、インドにおける製造業の対GDPシェアは約3割へ上昇しており、「インドの比較優位はIT関連のサービス部門」という従来の見方はもはや一面的なものとなりつつあります。今後、製造業とサービス業が成長の両輪としてよりバランスの取れた姿に移行すれば、インド経済の持続的成長のポテンシャルは一層高まっていくものと思われます。

 インドの製造業で特に注目されるのは、その積極的な海外展開、特に国際市場でのシェア拡大を企図した果敢なM&Aです。鉄鋼、化学、繊維などがインド企業による最近の国際的なM&Aの具体例として念頭に浮かびますが、インド企業は英語という言語上のアドバンテージに加えて、地球規模で事業展開を考えるコスモポリタンなマインドも強く、これが国際的な事業展開を行ううえで強みになっているように見受けられます。また、歴史的な経緯から、企業経営の枠組みやガバナンス構造の点で欧米企業との親近性が高いという点も、インドの製造業が海外展開を図るうえで追い風になっているのではないでしょうか。新興市場国は対内直接投資によって海外の先進技術を導入するケースが多いのですが、インド企業の場合は逆に積極的な海外展開を通じて、最先端技術の取り込みとグローバルな市場シェアの拡大を進めているという点で、独自の成長戦略を採っているように見える点は興味深いところです。

資本移動の自由化——世界経済との統合の深化

 この最後の点は、もう1つの注目すべき問題、すなわち資本勘定の自由化に対するインドのアプローチという問題にも関係してきます。インドは既に1994年に経常取引の自由化を行い、いわゆる「IMF8条国」に移行しましたが、資本勘定の自由化については、慎重な順序付け(sequencing)の下で漸進的に進められてきました。このうち資本の流入面をみますと、対内証券投資の自由化が相当程度進んでいるのに対し、対内直接投資については引き続き一部の業種に規制が残されています。

 対内証券投資の自由化は、現在のインドの株式市場の活況を支える大きな要因になっていますが、今後はこうした投資資金の受け皿となるべき国内の金融市場 —— 具体的には国債市場や社債市場など —— をさらに整備することによって、株式市場に偏重しない形での金融市場の発展や金利機能の活用を図り、対内証券投資の恩恵を複線的なチャネルで汲み取っていくことが期待されるところです。また、対内直接投資の自由化はより慎重に進められていますが、今後、インド経済がバランスの取れた産業構造の下で発展していくうえで、対内直接投資の果たす役割は大きいと思われます。さらに、投資ホライズンの長い対内直接投資が増加することで、国際収支バランスがより安定的にファイナンスされるというプラスの副次効果も考えられるところです。

 資本移動の自由化はインドがこれまで進めてきた経済発展戦略の仕上げの段階に位置付けられるように思われます。インドは急速に世界経済への統合を深めていますが、いずれ資本勘定の自由化が完了されれば、世界経済への統合プロセスも名実ともに成し遂げられたと言えるのではないでしょうか。

終わりに——アジアにおけるインド

 インドは古い伝統と現代の技術が独自の融合を遂げ、イノベーションと企業家精神が発揮されているダイナミックな国です。もちろん、現在のインド経済に全く問題がないという訳ではありません。例えば、足もとでは高成長に伴う景気の過熱を懸念する声が出ています。高止まりしている物価上昇率や急ピッチで増加する通貨信用量などをみると、確かにインフレ圧力は徐々に強まっているようです。また、より長いタイムスパンに立って考えると、規制・税制の効率化や財政再建と社会インフラ整備の両立などサプライサイドの施策、あるいは労働市場の柔軟性の向上など、一層の取り組みが期待される分野があります。インドがインフレ圧力を適切にコントロールしつつ、今後も持続可能な高成長を享受していくためには、こうした中期的な課題を乗り越えていくことが必要でしょう。本日申し述べた様々な要因や比較優位を背景に、私はインドがこれらの課題を克服していくキャパシティを十分に備えていると考えています。

 スピーチの最後に当たり、アジアという地域の文脈におけるインドについて、一言申し上げたいと思います。現在、アジアは域内協力の強化に向けて歩みを進めています。このプロセスはプラグマティズムによって特徴付けられており、独善的なイデオロギーによって支配されているものではありません。アジアの地域協力は自律的かつ市場ベースで進行しているものであり、堅固な枠組みの下で関係国が主権の一部を超国家的な官僚機構に移管して統合を進めてきた欧州とは著しい対照をなしています。

 従って、アジアの域内協力は厳格な制度的枠組みを前提としたものではありません。取り組むべき課題の内容や性格に応じて、様々な関係国が柔軟な形で協調するスタイルが基本になっています。アジアにはその活動目的に応じて参加国を異にする様々なグループ —— 例えば、ASEAN、ASEAN+3、アジア協力対話(ACD)、EMEAP、アジア開発銀行など —— が共存していますが、これらはアジアの多様性・柔軟性を象徴するものに他なりません。「地域」という概念が相対的なものである以上、アジアの地域協力は厳密な境界に縛られることなく、フレキシブルな形で進められていると言ってもよいでしょう。

 今後、日本がインドとの関係をさらに深めていくうえでは、こうしたアジア特有の柔軟性を存分に活用していくことが望まれます。そのうえで、日本銀行は金融・通貨協力の分野において、日印関係の一層の発展に貢献していきたいと考えております。

 ご静聴、有難うございました。

以上