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「日本経済の現状・先行きと金融政策」

三重県金融経済懇談会での須田美矢子審議委員挨拶要旨

2007年9月27日
日本銀行

目次

  1. 1.はじめに
  2. 2.日本経済の動向
    1. (1)日本経済の標準シナリオ
    2. (2)標準シナリオにおけるリスク要因
      1. I.海外経済におけるリスク要因
        1. (i)サブプライム問題の発生と各国中央銀行の流動性対応
        2. (ii)米国経済はソフトランディングするか
        3. (iii)標準シナリオへの影響をどう考えるか
      2. II.国内経済におけるリスク要因
        1. (i)企業部門の好調は持続するか
        2. (ii)ゼロインフレは続くのか
  3. 3.金融政策のあり方
    1. (1)テイラー・ルール
    2. (2)テイラー・ルールからみた政策対応のタイミング
    3. (3)フォワード・ルッキングかつ漸進的な対応の必要性
    4. (4)金利調整の現状評価
  4. 4.おわりに

1.はじめに

 日本銀行の須田美矢子です。日本銀行では、総裁、副総裁および政策委員会審議委員、いわゆる「政策委員」(ボードメンバー)が、できるだけ頻繁に全国各地を訪問し、日本銀行の施策の趣旨をご説明申し上げ、かつご意見を直にお聞きして、政策判断の際に参考にさせていただいております。本日は、三重県の各界を代表する皆様方に、ご多忙のなかをお集まりいただき、親しくお話しする機会が得られましたことを誠にありがたく、光栄に存じます。また、日頃、私どもの名古屋支店が大変お世話になっております。この場をお借りして厚くお礼を申し上げますとともに、今後ともよろしくご指導を賜りますよう、お願い申し上げます。

 本日、私からは、日本経済の現状・先行きと金融政策についてお話しさせていただき、最後に三重県のこれからについて僭越ながら私なりの意見を少し述べさせていただいた後、皆様方から当地の実情に即したお話や、忌憚のないご意見を承りたいと存じます。

2.日本経済の動向

(1)日本経済の標準シナリオ

 さて、日本経済を概観しますと、景気は2002年初以降、緩やかながらも息の長い拡大を続けており(図表1)、私ども日本銀行が4月に公表した「経済・物価情勢の展望」(いわゆる「展望レポート」1)の「経済・物価情勢の見通し」に概ね沿ったかたちで推移しています。輸内需別にみますと、輸出は欧州やアジアを中心とする旺盛な外需に支えられ、堅調な伸びを続けています。また、国内民需も、好調な企業部門が牽引するかたちで底堅く推移しています。今夏以降、サブプライム問題をきっかけに金融市場が振れの大きい展開となっていますが、これまでのところ実体経済には目立った影響は出ていません。

 足許の景気の動きをやや仔細にみますと、まず、実質輸出は(図表2)、海外経済の拡大を背景に増加基調を続けています。仕向け地別にみますと、米国向けは景気減速の影響からやや弱めの動きとなっていますが、欧州向けが引き続き堅調に伸びているほか、東アジア向けも若干の振れを伴いながら増加を続けています。また中東などその他地域向けも高い伸びを続けるなど、低調な米国向けを他の地域がカバーするかたちで、実質輸出全体としては増加基調を維持しています。

 先行きについても、引き続き増加していくとみています。すなわち、米国経済については、サブプライム住宅ローンに対する与信が厳格化しているほか、足もとのリスク再評価の影響が一部のプライム住宅ローンに波及する兆しも窺われており(図表3)、その影響が住宅市場の調整を幾分長引かせる方向に働くと考えられます。したがって、米国経済の成長率が潜在成長率並に回復する時期は、やや後ズレする可能性が高いとみています。しかし、米国向け輸出が多少下振れる程度に収まるのであれば、世界貿易における東アジアやその他の新興国のプレゼンスの高まりを背景に、我々の輸出の見通しにはさほど大きな影響を及ぼすことはないと考えています2。その背景については、後ほど詳しく整理してみたいと思います。

 次に、内需に目を転じますと、設備投資は、ひところに比べ減速感は否めませんが、良好な収益環境に支えられ増加基調を維持しています(図表4)。GDPベースの実質設備投資は、4-6月、法人企業統計の下振れを受けて前期比-1.2%と比較的大きな減少となりましたが、資本財出荷といった他の設備投資関連指標が引き続き増加傾向を辿っていることなどを踏まえますと、法人企業統計のサンプル要因による振れが影響している可能性が高いと思われます。先行きについても、先行指標である機械受注や建築着工床面積が足もと振れの大きい展開となっていますが3、均してみれば増加基調を維持していくと思われます。この間、住宅投資を新設住宅着工戸数でみると、改正建築基準法施行の影響から、足もとでは大幅に減少しています4。ただし、長い目でみれば底堅く推移していくとみています5

 また、消費に影響を与える雇用・所得環境は(図表5)、完全失業率が8月には3.6%まで低下するなど労働需給は引き締まりの傾向を強めており、雇用者数も増加基調を辿っています。一方、一人当たり賃金は、企業の賃金抑制スタンスが根強いもとで6、(1)団塊世代の退職を、賃金水準が相対的に低い新規採用で補充していることや、(2)パート比率の再上昇、(3)地方公務員の給与削減等の影響もあり、引き続き弱めの動きとなっています。特に、夏季賞与にほぼ対応する6~7月の特別給与が、前年比-3.1%とやや大きめの減少となりましたが、幾つかの夏季賞与に関するアンケート調査が前年を上回る結果であったことを踏まえますと7、団塊世代の退職の影響に加え、アンケート調査ではカバーできていない中小企業の賞与が減少している可能性があるように思われます。実際、中小企業では、原材料価格の高騰を販売価格に転嫁するのが困難であることから、収益が圧迫されているとのアンケート結果もみられています8。したがって、そうした収益環境の悪化が賞与抑制に繋がっている可能性が高いと思われます。このように一人当たり賃金は伸び悩んでいますが、雇用者数が安定的に増加していることから、雇用者所得全体では、緩やかな増加を続けています。先行きについても、この基本的な見方に変更はありません。

 こうした雇用・所得環境のもとで、個人消費は底堅く推移しています(図表6)。7月は天候不順等の影響によって一時的に不冴えな動きもみられましたが、家電販売が薄型テレビ等のデジタル家電やゲーム機を中心に好調を持続しているほか、これまで低迷を続けてきた新車登録台数も8月は増加に転じるなど、漸く薄日が差しています。また、外食や旅行をはじめとするサービス関連も引き続き堅調に推移しています。先行きについても、ガソリン価格の高止まりや株価下落、年金問題等に伴うマインド面への影響には留意する必要がありますが、雇用者所得の緩やかな増加がアンカーとなって、引き続き底堅く推移していくとみられます。

 このように、堅調な内外需要に支えられ、鉱工業生産も増加基調を辿っています(図表7)。4-6月期から夏場にかけて、IT関連の在庫調整の動きや新潟県中越沖地震による自動車の減産等もあって横這い圏内の動きとなりましたが、7-9月以降は、電子部品・デバイスが、デジタル家電やゲーム機向けの好調持続に加え、パソコン向けが新型OS関連向けを中心に持ち直すとみられること等から、再び増加していくと見込まれます。また、自動車についても、新車投入効果等から、年後半は増加していく見通しです。

 この間、物価については(図表8)、原油や非鉄金属をはじめとする商品市況が高値圏で推移するなか、国内企業物価では、石油・石炭製品、化学製品、鉄鋼・建材関連といった幅広い分野で原材料コストの上昇を価格に転嫁する動きが拡がっており、上昇基調を続けています。また、半導体市況についても、韓台メーカーにおける在庫調整の進展等を背景に下げ止まってきているほか、サービスの価格を集約した企業向けサービス価格指数も、このところ上昇基調を辿っています。しかしながら、こうした動きと対照的なのが、消費者物価指数です。消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比をみますと、ここ数か月ゼロ%近傍で推移しています。内訳をみますと、外食や教育関連サービスは緩やかな上昇を続けていますが、耐久消費財がマイナス圏内で推移しているほか、家賃や移動電話通信料が下落しています。このように、企業段階での価格上昇がなかなか消費者物価に転嫁されない背景には、安価な海外製品の流入など経済のグローバル化が進展するもとで、企業が生産性向上や人件費の抑制を図りながら販売価格引き上げを回避する傾向が強まっていることが指摘できます。

 しかしながら、マクロの需給ギャップが需要超過方向に拡大していくもとで、原材料価格の上昇を販売価格に転嫁する動きが最終財の間でも徐々に広範化していくとみられることから、今後、消費者物価指数(除く生鮮食品)の前年比は、次第にプラス基調を定着させていくと考えています。

  1. 1日本銀行では、毎年4月と10月の年2回、金融政策決定会合の決定を経て、「経済・物価情勢の展望」(いわゆる「展望レポート」)において、日本銀行の経済・物価情勢に対する見通しを公表しています。その際、その時点でもっとも蓋然性が高いと判断されるシナリオを提示するスタイルをとっていますが、参考として、政策委員による実質GDP、国内企業物価指数、消費者物価指数(全国、除く生鮮食品)の見通しも併せて掲載しています。これは、金融政策の透明性向上という観点から、日本銀行の金融政策運営に対する考え方や、経済・物価情勢についての見方を、よりわかりやすく伝える取組みの一環として行っているものです。
  2. 29月の金融経済月報(「基本的見解」)では、海外経済に関する表現が、「海外経済の拡大」から「海外経済が全体として拡大」に修正されました。
  3. 3機械受注(船舶・電力を除く民需)は、4-6月が前期比-2.4%の後、7月は+17.0%と大きく振れています。因みに、7月の大幅増には設備投資にカウントされない携帯電話が大きく寄与していると推測されますが、携帯電話を含む「通信業からの通信機受注」を除くベースでも、2桁の増加となっています。また、建築着工床面積(民間非居住用)の大きな振れ(4-6月前期比+24.5%、7月前月比-43.7%)については、改正建築基準法に伴う駆け込みとその反動が影響している可能性が高いとみられます。
  4. 46月20日に施行された改正建築基準法により建築確認の審査基準が厳格化され、手続きも大きく変更されましたが、関係者において制度変更への対応が円滑に進んでおらず、それが建築着工の遅れに繋がった模様です。
  5. 5改正建築基準法における事務が軌道に乗るまで、この影響は暫く残ると思われるため、GDP統計にもフレを作る可能性があります。
  6. 6経済のグローバル化と賃金の関係については、「日本経済の現状・先行きと金融政策」(佐賀市における金融経済懇談会での須田美矢子審議委員挨拶要旨<2007年1月>)等をご参照ください。
  7. 7アンケート調査結果
    アンケート調査結果(前年比、%)
      2006年度・夏 2006年度・冬 2007年度・夏
    日本経済団体連合会 2.9 2.5 3.0
    日本経済新聞社 2.1 2.0 2.5
    労務行政研究所 3.7 3.3 2.2
  8. 8中小企業庁の「原油・原材料価格上昇による中小企業への影響調査(7月調査)」をみると、9割の企業が原油や原材料価格の上昇が収益を圧迫していると答えており、販売価格への転嫁もなかなか進んでいないことを確認することができます。

(2)標準シナリオにおけるリスク要因

 以上、標準シナリオについて述べて参りましたが、次に、そのリスク要因について、整理しておきたいと思います。展望レポートや金融経済懇談会等の講演資料のバックナンバーをご覧頂くとお分かりのとおり、これまで私どもでは、様々な機を捉えて、次の3つのリスク要因、すなわち(1)海外経済の動向、とりわけ米国住宅市場の調整の深度、(2)IT関連財の在庫調整の進捗、(3)金融環境などに関する楽観的な想定に基づく金融・経済活動の振幅の拡大、について指摘してきました9。今回のサブプライムローンに絡む市場の動揺も、まさに米国における低金利下での過大なLoan to Valueによる住宅ローンの拡大と、住宅価格の調整が起きているのであり、我々が指摘しつづけてきたリスクが目に見えるかたちとなって表面化したものと捉えることができます。先ほど、仮に、サブプライム問題によって米国経済が下振れたとしても、我々の輸出見通しに与える影響は限定的であると指摘しました。その背景にある考え方について、以下でやや丁寧に議論してみたいと思います。まず、サブプライム問題の発生と各国中央銀行の対応について、確認することから始めます。

  1. 9「経済・物価情勢の展望」(2007年4月)、「日本経済の現状・先行きと物価の安定」(神戸市における金融経済懇談会での須田美矢子審議委員挨拶要旨<2006年7月>)等をご参照ください。

(I)海外経済におけるリスク要因

(i)サブプライム問題の発生と各国中央銀行の流動性対応

 今回の米国住宅市場を震源とするサブプライム問題では、米国市場のみならず、欧州や日本等、世界の主要な金融市場に大きな揺れを発生させました。米国でサブプライム住宅ローン(信用力の低い層に対する住宅ローン)の延滞率や差し押さえ発生率が上昇し、サブプライム専業のモーゲージ業者の破綻やファンドの損失発生が相次いだことなどから、欧米市場では、CDO、CLOといった証券化商品の信頼性に対する疑心暗鬼が拡がりました。これを受けて、それらをファンディングするためのドル資金の調達も困難となり、短期金利が急騰するといった事態が発生しました。各国の中央銀行は即座に市場に対して潤沢な資金を供給するとともに、流動性回復へ向けた様々な措置を講じました(図表9)。

 東京インターバンク市場でも、円を調達してドルに換え、それを海外のドル資金ニーズに充当するというディーリングが当たり前のように行われています。したがって、今回のサブプライム問題をきっかけに、ドル資金の必要な金融機関が東京インターバンク市場で円を取り上がる動きに出た場合、わが国の短期金利にも影響を及ぼすことになります。こうしたことから、日本銀行でも、海外中央銀行や金融機関に対する情報収集を通じて状況の把握に努めるとともに、流動性リスクに十分配意したきめの細かい金融調節を行ってまいりました。わが国金融機関のサブプライムローンに絡む証券化商品等へのエクスポージャーが大きくなかったこともあって、基本的に日本の短期金融市場に問題は生じていません。

 なお、日本銀行に対して、一部の市場参加者から、「FRBやECBに比べて対応が不十分だったのでは」との声を耳にすることがあります。しかし、私ども日本銀行では、金融システム不安や量的緩和政策の時期を通じて、流動性供給方法に工夫を凝らしてきた結果、海外中央銀行と比べても、かなり充実した供給手段を持つに至っています。今回のサブプライム問題につきましても、各国中央銀行や金融機関から収集した的確な情報に基づき、通常の金融調節の範囲内で十分対応可能との判断のもとで、粛々と対応してまいりました。8月積み期の最終局面で、無担コール(オーバーナイト物)レートが誘導目標の0.5%を大幅に下回ったことや、その最終局面を除けば、レートは概ね安定して推移していたことからも、我々の対応が十分であったことがお分かりいただけると思います(図表10)。

(ii)米国経済はソフトランディングするか

 現在、欧米のクレジット市場では、依然としてクレジットリスクの再評価の過程にあるとみられます。もちろん、クレジット・スプレッドが一頃のような極端に薄い状態に戻ることはないと思っていますが、サブプライムローンを含む証券化商品のリプライシングにある程度目途が立てば、もともと投資家のリスクアピタイトは旺盛だったわけですから、いずれクレジット市場の正常化は進むと思われます。実際、資金繰りが困難化していた住宅金融会社が新規融資を獲得したとか、買収資金の調達が出来ず止まっていたLBO案件の一部資金繰りに目途がついたといった前向きなニュースも、少しずつ聞かれるようになっていますし、CP発行残高の減少ペースに歯止めがかかりつつあるとの見方も出ているようです。ただ、金融機関の間では、証券化や転売が困難となることによって、自己のバランスシートにリスク資産が積みあがる懸念が払拭されたわけではありません。引き続き証券化商品の発行主体による流動性へのニーズは強く、オーバーナイト金利は中央銀行の対応によってある程度抑制されているとしても、ターム物金利は高止まりが続いているようです。今のところ、米金融機関の四半期決算にサプライズな結果は出ていませんが、今後も決算発表は続きます。また、償還を迎えるABCPのロールが進むのかという点も気になります。市場は、引き続き不安定化し易い地合いが続くとみられ、まだ警戒を解くわけにはいきません。

 今後、クレジット市場が落ち着きを取り戻したとしても、クレジットリスクの再評価が行われるとすれば、結果として信用力の乏しい借り手を中心に、与信条件が厳格化されることとなります。リスクプレミアムの復活によってクラウドアウトされた信用力の乏しい借り手が、FRBの利下げによって再び住宅市場に戻ってくるとは考え難く、結局、住宅市場の調整はこれまで以上に長引く可能性が高いと思われます。

 こうした中、FRBでは、9月の米連邦公開市場委員会(FOMC)において、「与信条件の厳格化が住宅市場の調整を深刻化させ、経済全体が抑制される可能性が高まった」として、政策金利であるFFレートの誘導目標を0.5%引き下げましたが、現在、市場参加者の間でも、米国の2008年実質成長率見通しを下方修正する動きが拡がっています。多くの先では、FRBの今後の追加的な利下げも織り込んだ上で、2008年後半にかけて潜在成長率を上回る伸びを回復するというシナリオを堅持しています。しかし、住宅在庫水準が高いことや、延滞率や差し押さえ発生率はむしろ2008年にかけて高まっていくとみられていること等から、私は、米国住宅市場の調整は2008年後半まで長引く可能性が高いと考えています(図表11)10。そうなれば、現在、平均的に2%台半ばと見込まれている市場の2008年成長率見通しは、もっと下振れることになります。ただし、仮に、2%程度にまで下振れたとしても、2007年の市場見通しとほぼ同程度であり、ソフトランディングシナリオから大きく逸脱するものではありません。

  1. 10図表11をみると、住宅在庫が高止まる一方で、連邦住宅貸付機関監督局(Office of Federal Housing Enterprise Oversight)が発表している中古一戸建て価格指数(OFHEO指数)は、上昇幅が縮小しているものの、依然として高い水準を維持しています。
(iii)標準シナリオへの影響をどう考えるか
(日本経済への波及チャネル)

 以上みてきましたように、米国のサブプライム問題を端緒とするクレジット・リスクや流動性リスクの高まりは、これまでのところわが国には目立って伝播してはいません。しかし、実体経済のチャネルを通じた波及、すなわち、(1)米景気の下振れに伴う米国向け輸出の減少、(2)株価や為替の変動を通じた企業の投資マインドや消費コンフィデンスへの影響については、慎重に検討する必要があります。

(米国向け輸出の減少を通じた影響)

 そもそも米国経済については、住宅市場の調整を背景とする景気の減速とその後のソフトランディングを織り込んでいますので、現在市場が平均的に見込んでいる程度の下振れであれば、わが国の輸出全体に与える影響はあまりないと言ってよいでしょう。私自身は、先ほど申しましたようにもっと下振れる可能性が高いとみていますが、世界経済へかなり影響が出るほど大幅な下振れにはならないと考えています。IMFの分析によれば11、「米国景気の減速が各国に大きな波及効果を及ぼすのは、米国が完全なリセッションにある場合、あるいはITバブルといった世界共通の要因によって減速している場合である。このたびの米国景気の減速は、比較的輸入性向の低い住宅部門に集中しており、そのどちらにも当たらない。」と述べています。足もとは、この間の市場の混乱を踏まえた上で、世界の経済成長は幾分スローダウンするかもしれないが、引き続きしっかりとしていると評価しています。また、アジア開発銀行ADBは最近、日本とオーストラリアを除く新興アジアについて、今年と来年の成長率見通しを上方修正しています12

 一方、わが国の貿易構造につきましても、近年、「アメリカがくしゃみをすれば風邪を引く」と言われていた時代から大きく変貌を遂げつつあります。すなわち、今回の景気拡大局面における米国向け輸出の寄与は限定的なものであり、中国やEU、その他地域向けが大きく貢献しています(図表12(1))13。また、輸出される財も自動車関連や資本財など多岐に亘り、ITバブルのころと比較してバランスのとれたものとなっています(図表12(2))。このような、仕向け地や輸出財の分散化が進んだことによって、仮に米国経済の成長率が市場の見方より多少低くなったとしても、日本の輸出全体に及ぼす影響は限定されたものとなる可能性が高いと思われます。

  1. 11"Decoupling the Train? Spillovers and Cycles in the Global Economy," World Economic Outlook- Spillovers and Cycles in the Global Economy -, April 2007, IMF, PP. 121-160.
  2. 12Global Financial Stability Report,IMF,24 Sept.2007Asian Development Outlook 2007 update,17 Sep. 2007を参照してください。
  3. 13詳しくは、日本銀行調査統計局「近年のわが国の輸出入動向と企業行動」(BOJ Reports & Research Papers、2007年8月)を参照のこと。
(金融資産価格の変動を通じたマインド面への影響)

 もう一つの波及ルートである、株価等の金融資産価格の変動が企業の投資マインドや消費者コンフィデンスに与える影響については、今後公表される指標の動向を注視していくしかないと思っています。実際、今夏以降、株価下落、為替円高が進んでいるわけですから、その影響はゼロではないと考えています。それが、原油価格の高止まり等とも併せて、標準シナリオにまで影響を及ぼしてくるのかどうか、注意深くみていきたいと思います。

(II)国内経済におけるリスク要因

(i)企業部門の好調は持続するか

 国内のリスク要因についても、若干触れておきたいと思います。展望レポート等では、これまでもIT関連財の在庫調整について経済の下振れリスクとして指摘してきました。最近、デジタル家電やゲーム機向けの出荷が世界的に好調を持続するもとで、パソコン向けも新型OS関連向けに持ち直す動きが窺われており、電子部品・デバイスの在庫調整にも漸く目途が立ちつつあります。このままクリスマス商戦へ向けて良好な需給環境が継続すれば、年後半にかけてその点からの下振れリスクはかなり軽減されると見込まれます。

 一方、ここへきて気になっているのが、中小企業の状況です。4-6月の法人企業統計の資本金別設備投資をみますと、10億円以上の大企業が前年比+2.5%と増加基調を継続している一方で、1億円~10億円の企業が同-3.7%、1,000万円~1億円の企業が同-19.9%と、ここへきて大企業と中堅・中小企業とのコントラストが目立つようになっています。また、中小企業金融公庫の「中小製造業設備投資動向調査」による2007年当初計画をみても、前年度の当初計画対比-7%とやや弱めです。法人企業統計の設備投資の下振れについては、サンプル要因による振れが影響している可能性を指摘しましたが、それだけでこの中小企業の弱さをすべて説明できるわけではありません。食料品や卸・小売、不動産といった中小企業の比率が高い業種も、軒並み前年割れとなっており、中小企業の収益環境が全般的に厳しさを増しつつあることを示唆しています。確かに、中小企業庁のアンケート調査結果からも、原油や原材料価格の上昇が収益を圧迫していることが窺えますし14、中小企業金融公庫の「中小企業動向調査」でも、業況判断DIが足もと頭打ち傾向となっています。

 今のところ、設備投資全体でみれば、ひところに比べ減速しつつも引き続き増加基調にあるとの標準シナリオを、変更する必要はないと考えています。しかし、このまま原材料コストが高止まりし、販売価格への転嫁が進まない状況が続けば、設備投資全体に与える影響は無視できないものとなるかもしれません。賃金に与える影響等も含め、今後、中小企業を取り巻く収益環境の悪化や業況感の動向について、きめ細かくチェックしていく必要がありそうです。

  1. 14脚注8でも紹介した、中小企業庁の「原油・原材料価格上昇による中小企業への影響調査(7月調査)」。
(ii)ゼロインフレは続くのか

 これまでみてきましたように、息の長い景気拡大を続けてきた日本経済の今後を考えるとき、どうしてもダウンサイドリスクに目を奪われがちになります。しかし、ここであえてアップサイドリスクについても触れておきたいと思います。具体的には、物価動向の今後についてです。

 最近、マヨネーズ、タクシー料金、ワイン、即席めん、コピー用紙など、値上げに関するニュースを頻繁に目にするようになりました。私自身、主婦として非常に気になるところですが、実際、「品目の年間購入頻度階級別指数」をみてみますと(図表13)、購入頻度の高い品目の上昇幅が拡大しつつある姿を確認することができます。しかし、なかなかこうした動きが消費者物価指数全体の上昇にまで繋がってきません。マクロの需給ギャップがプラス(需要超過)の領域に浮上して暫く経っているにも拘わらず、消費者物価指数がゼロ近傍で膠着しているという現在の状況は、我々にとって一種のパズルのように思えます。先ほど、グローバル化が進展するもとで、企業のコーポレートガバナンスを意識した経営姿勢が強まり、販売価格を抑制しながら、生産性向上や人件費の削減が図られてきた可能性を指摘しましたが、ここへきて、企業サイドに人件費や原材料費の増加を生産性の向上によって吸収する余地が減ってきているのも事実です。値上げに関する報道が最近増えているのもそうしたことの証左に他なりません。また、息の長い景気拡大が続くもとで、生活必需品の値上げや、値上げに関する報道を頻繁に目にすることにより、消費者サイドにおいても、徐々に価格転嫁を受容するムードが醸成されつつあるという面もあると思われます。最近では、業界を代表するプライスリーダー的な企業が値上げに踏み切るケースも窺われており、競合他社を意識して様子見をしていた企業の間にも、値上げに追随する動きが広範化してくる可能性もあります。いずれにせよ、このまま雇用のタイト化と原材料価格の高止まりが続けば、そう遠くない将来、インフレ率が思いのほか上振れるリスクも、念頭においておく必要があると思っています。

3.金融政策のあり方

 さて、次に、金融政策のあり方について、最近考えていることを述べてみたいと思います。

(1)テイラー・ルール

 中央銀行の政策目標を達成するための最適な金融政策のパスを、なるべく簡単な形で導くことができれば、実際の金利パスを評価する上でも、また金利について市場との対話を深める上でも便利です15。この代表例がテイラー・ルールです。本日はこのテイラー・ルールを金融政策に対する評価の基準にしたいと思っていますので、まずはそれについて説明します。

 テイラー・ルールは、潜在成長率から決まる均衡実質金利(=中長期的な平均値として達成されると考えられる実質金利)や目標インフレ率を念頭に置いたうえで、(1)実際のインフレ率の目標インフレ率からの乖離、(2)需給ギャップ、を観察しながら政策金利を決定するルールです。その基本形は

政策金利=均等実質金利+目標インフレ率+α×(インフレ率-目標インフレ率)+β×需給ギャップ    

で示されます。このルールを用いて望ましい政策金利水準を求める場合、目標インフレ率や均衡実質金利、政策反応パラメータであるα、βなどを決めなければなりません。テイラーは、α=1.5、β=0.5というパラメータが、1987年から1992年におけるFRBの政策を驚くほどよく記述できることを示しました16。これがオリジナルなテイラー・ルールです。テイラー自身はこのルールを最も望ましい政策ルールとして導きだしたわけではありませんでした。最も望ましい政策ルールは、社会的な損失が最も少ないルールと定義することができます。社会厚生損失関数は、例えば、

社会的損失=(インフレ率-目標インフレ率)²+λ(需給ギャップ)²    

のように表されます。この式は政策担当者がインフレ率と実体経済の目標からの乖離を損失と認識していることを表していますが、二つの損失の重点の置き方がウェイトλで示されています。

 実は、このような社会的な損失を最小にするような政策金利のパスを求めますと、ある特定のモデルの下では、テイラー・ルールが最適な金融政策となります17。ただし最適な政策パラメータαやβの値は、経済の構造や社会的損失のウェイトλに依存しますので、テイラーのオリジナルな数値と一致する保証はありません。例えばλが大きいほどα分のβが大きくなる傾向がみられます18。このように、最も望ましい金融政策の考え方に即してテイラー・ルールのパラメータを決定する場合には、テイラー・ルールの位置づけが規範的な意味を持つことになります。なお、ここでは簡単な損失関数を例示しておきましたが、経済はダイナミックに変化していますから、その点を考慮に入れますと、将来にわたる損失を最小にする必要があります。そうやって導き出された最適なテイラー・ルールは、フォワードルッキングであり、かつ予防的な政策ルールということになります。

 もちろん、現実の経済構造は複雑ですし、中央銀行が特定の政策ルールに機械的に従えばよいというわけではありません。またテイラー・ルールといってもその算出方法にバリエーションがたくさんありますので、対話の道具として使う場合に、必ずしも同じ物差しで対話ができるとは限りません19。とはいえ、中央銀行が様々なショックに対してどのように対応するのか、少なくとも政策運営の一つの指針としてテイラー・ルールがあれば参考になりますし、市場とのコミュニケーションが改善され、アカウンタビリティを僅かなりとも高めることができると思われます。

  1. 15金融政策ルールの考え方については、小田信之・永幡崇「金融政策ルールと中央銀行の政策運営」『日銀レビュー』2005-J-13を参照してください。
  2. 16実質均衡金利、目標インフレ率はそれぞれ2でした。John B. TaylorのMacroeconomic Policy in a World Economy: From Econometric Design to Practical Operation, NY W.W. Norton, 1993"Discretion versus policy rules in Practice",Carnegie-Rochester Conference Series on Public Policy 39, 1993を参照してください。
  3. 17Lars E.O. Svensson, "Inflation targeting as a monetary policy rule ",Journal of Monetary Economics 43,1999Laurence Ball,"Efficient Rules for Monetary Policy",International Finance 2:1 1999を参照してください。
  4. 18"Alan S. Blinder," Monetary Policy TodaySixteen Questions and about Twelve Answers"を参照してください。
  5. 19均衡実質金利や需給ギャップの想定、トレンドの有無、金利スムージングの有無、不確実性の有無などバリエーションがあります。いくつかのバリエーションによる最近の分析については、例えば、Adriana Z. Fernandez and Alex Nikolsko-Rzbevskyy,"Measuring the Taylor Rule's Performance",Economic Letter, FRB of Dallas, Vol.2 No.6, June 2007を参照してください。

(2)テイラー・ルールからみた政策対応のタイミング

 日本経済は、バブル崩壊後長い調整過程を経験したわけですが、当時の日銀の金融政策については、テイラー・ルールを判断の物差しに使って、80年代の後半にもっと早く利上げすべきであったとか、90年代前半にもっと早くアグレッシブに利下げすべきであったといった議論がなされてきました20。前者の批判については日本の金融政策はテイラー・ルールに沿ったものであったとの分析結果も出され、バブル期における日本の金融政策の問題は、90年代前半に利下げをアグレッシブに行わなかったことにあるという結論がFRBからだされました。実際、ミシュキン理事は、日本の経験から引き出されるべき教訓は、バブルに立ち向かう中央銀行の仕事はそれをとめることではなく、破裂した後に素早く対応することであると述べています21

 日本のバブル期に受けたのと同様の批判が今日、米国にも向けられています。8月末に開催されたカンザスシティ連銀主催シンポジウムは「住宅、住宅金融と金融政策」というまさにホットなテーマで開催されたため、多くの注目を集めましたが、住宅市場の調整が深まる中で、FRBがテイラー・ルール対比でみて低すぎる金利を維持したことが批判され、同時に利下げが遅れたとの批判もなされています22。これに対して、FRBサイドは、住宅価格下落が経済に及ぼす悪影響を抑える手段を持っており、「もし住宅価格が下落したら米政策金利をテイラー・ルールよりも大胆かつ相当早く引き下げるということだ」(ミシュキン理事)とあるように、日本から得た教訓を活かし、事後的かつ的確に対応する姿勢を示しています23

 なお、FRBが利上げ開始に時間がかかった理由として、当時、デフレ懸念が強かったことがあげられます。グリーンスパン議長は2003年5月の議会証言の際に、「デフレの対応には大きな不確実性が存在するが、FRBはデフレに陥らないように保険をかける意味もあり、積極的な対応を講じてきた。今後ともFRBは注意していくが、更なる対応が必要となる可能性は否定できない」と述べています24

 他方、2004年12月のFOMCの議事要旨には、OFHEO住宅価格の急騰を背景に、「一部の参加者は、金融緩和の長期化が流動性の大幅な増加を促し、クレジットスプレッドの縮小や一戸建て住宅及びマンション市場で投機的需要が顕在化し始めたとの事例報告などにみられるように、金融市場における潜在的に過剰なリスクテイクの兆候が顕在化している可能性がある」との見解を示しています25。また、2005年6月の議会証言では、グリーンスパン議長は「低い長期金利および住宅ローン金利は、最近の住宅建設や売買の増加、住宅価格の上昇の主要な要因となっている。米国全体として住宅価格の「バブル(bubble)」が生じているとはみられないが、いくつかの地域で、住宅価格が持続可能でないような水準まで上昇するといった「小さな泡(froth)」の兆しは生じているようにみられる」、「最近の住宅取引の増加は、かなりの程度セカンドハウスの取引増によるとみられ、このことは、最近の住宅価格の上昇が、かつてに比べ、より投機的な動きを反映したものである可能性を示唆している」と述べていますが、その後も淡々とメジャードペースで(0.25%ずつ)利上げを継続させ、バブル的な状況という認識があっても金融政策をよりアグレッシブに対応させることはありませんでした26

  1. 2080年代後半については、1999年カンザスシティ連銀主催シンポジウムにおけるBen S. Bernanke and Mark Gertler,"Monetary Policy and Asset Price Volatility",と山口泰「資産価格と金融政策—日本の経験—」、翁邦雄・白川方明・白塚重典「資産価格バブルと金融政策:1980年代後半の日本の経験とその教訓」『金融研究』第19巻第4号、2000年12月、翁邦雄・白塚重典「資産価格バブル。物価の安定と金融政策:日本の経験」『金融研究』2002年3月を参照してください。また90年代前半については、Alan Aherne, et al."Preventing Deflation:Lessons from Japan's Experience in the 1990s" International Finance Discussion Papers No,729 FRB 2002、2002年カンザスシティ連銀主催シンポジウムにおける山口泰「変化する経済環境のもとでの金融政策」を参照してください。またこれらの参考文献も参照してください。
  2. 21Frederic S. Mishkin,"Housing and the Monetary Transmission Mechanism",FRB Aug. 2007を参照してください。
  3. 222007年カンザスシティ連銀主催シンポジウムにおける論文、John B. Taylor, "Housing and Monetary PolicyEdward E. Leamer, "Housing and the Business Cycle",などを参照してください。テイラーはテイラー・ルールからみて米国の利上げが遅すぎた、もっと早く利上げをしていれば住宅の調整問題はここまで大きくはならなかっただろうと論じています。リーマーは2003年から2005年にかけてより積極的に利上げをすべきであったし利下げも遅れていると批判しました。William Poole, "Understanding the Fed", Reserve Bank of St. Louis、Aug.2006では米国金融政策をテイラー・ルールを基準に論じていますが、この図1からも当時の金利が低いことが窺えます。
  4. 23ミシュキンの前掲論文を参照してください。
  5. 24なお、デフレの懸念があったことは、Ben S. Bernanke, "Deflation: Making Sure "It" Doesn't Happen Here" .FRB Nov. 2002 からも窺えます。
  6. 25FOMC Minutes,14 Dec.2004.
  7. 26同議会証言で、「住宅価格が—とりわけ一部の地域で—反落する可能性は否定できないが、仮にそうした反落が起こっても、マクロ的な影響は大きなものとはならないだろう。銀行業務の範囲が米国全土に広がり、住宅ローンの証券化も広範に行われていることは、かつてに比べ、地域的な住宅価格の修正が金融仲介機能に及ぼす影響を小さくする方向に働くと考えられる」とかなり楽観的な見方を示しています。

(3)フォワード・ルッキングかつ漸進的な対応の必要性

 それでは、金融政策は、住宅価格などの資産価格をより配慮すべきなのでしょうか。テイラー・ルールでいえば、先に示した式の右辺に資産価格の動きを付加すべきなのでしょうか27。確かに、現在、米国における金融政策の運営をむずかしくしているのは、サブプライム問題をきっかけにした金融市場の混乱による先行き不透明感の高まりであり、その根本的な原因は米国の住宅市場のブームとその調整にあります。もっとも、FRBは資産バブルに金融政策で直接対応することに対しては、バブルの認識が難しいことなどからかなり批判的です。中央銀行は住宅価格が総需要と資源の稼動状況に影響を与える程度に応じて、住宅価格に対応すべきだという考え方はFRBでも共有されているようです。しかし、テイラー・ルールに直接資産価格の変動を組み込むべきではないという立場を明確にしています。例えば、ファーガソンFRB副議長は、2005年1月に「資産価格のブームと破裂はリセッションにしばしば関連するが、市場の熱狂が疑われる状況に対して明確な政策対応をとることは提唱できない」と述べています28

 日本のバブル期の経験を振り返ってみますと、FRBが主張するように、バブルが弾けた後に、日本がアグレッシブな政策がとれたかどうか疑問がなくもありません。政策効果(政策乗数)の不確実性を考慮すると、バブル崩壊後の金融政策運営は概ね最適圏内にあったとの分析もみられます。一方、当時の政策担当者がインフレ見通しの不確実性を強く意識していれば、より積極的な金融緩和を行うべきだった——つまり、テイラー・ルールのαを高めに設定した政策が望ましかった——という分析も示されています。ただ、その場合でも、インフレ率や実質成長率はある程度下支えされるが、効果は限定的で、早めの金融緩和だけでは90年代の長期停滞という全体的な姿を変ることは出来なかったことが、示されています29

 このようにバブル崩壊の懸念が強まった後に、金融政策対応だけでうまく経済をソフトランディングさせることはなかなかむずかしい、というのが日本の経験が我々に語っていることだといえます30。将来に対する経済主体の期待が著しく強気化した後は政策対応が大変になります。したがって、バブルの発生を未然に防止するよう努めることも、重要だと思います。そのためには、フォワードルッキングに様々なリスクをできるだけ顕現化しないうちに把握し、早めに対応していくことが不可欠です。

 ところで、1998年の新日銀法の制定に向けて、金融制度調査会は「日本銀行法の改正に関する答申」を出しましたが、答申理由書には次のような指摘があります31

 日本銀行の金融政策(通貨及び金融の調節)の最も重要な目的は「物価の安定」を図ることにある。その際、日本銀行の金融政策の運営は、物価の安定を図ることを通じて、「国民経済の健全な発展」に資することを基本とすべきである。ただし、日本銀行は、ただ物価の安定にのみ専念すれば足りうるのではなく、物価の安定を基本とし、国民経済の健全な発展に資するよう、機動的かつ的確な金融政策を遂行することが求められている。さらに、一般物価水準が安定している中でも、地価・株価等の資産価格の高騰・急落が生じ、国民経済に深刻な影響を与える可能性があることは、過去の経験が示すところであり、日本銀行は、資産価格の変動にも留意していく必要がある。

 これをどのように解釈すべきでしょうか。私は、その意図するところは、資産価格に対して直接的に政策対応を行うべき、つまりテイラー・ルールでいえば資産価格の変動を政策ルールの右辺に付加すべき、ということではないと解しています。「持続的な」物価安定を図り、国民が物価の変動に煩わされることなく経済活動にかかる意思決定を行えるような環境を整えることが、金融政策の目標なのであって32、先ほど示したようなフォワードルッキングで予防的な金融政策を採ることが求められているということだと捉えています。

 昨年3月に採用した新たな金融政策運営の枠組みでは、中長期的な物価安定の理解を定め、それを念頭において、もっとも蓋然性の高い標準シナリオが物価安定のもとでの持続的な成長の経路をたどっているかどうか(第一の柱)ということに加えて、より長期的な視点を踏まえつつ、確率は高くなくとも発生した場合に生じるコストを勘案して、金融政策運営の観点から重視すべきリスクを点検する(第二の柱)ことにいたしましたが、これはまさにこのような考え方によるものです。足もと物価が落ち着いていても、持続的な物価安定が損なわれるリスクが高まっていると判断される場合には、早期に金利を引き上げ、持続的な物価安定を確保していく必要があります。もちろん、このようなフォワードルッキングで予防的な政策も口でいうほど簡単ではありませんが、そのような努力を続けていくつもりです。

  1. 27理論的な観点からは金融政策ルールを資産価格にも反応させることによって、景気や物価を追加的に安定できる場合もありえます。例えば、資本市場が不完全で、それによって引き起こされる短期的な資源配分の歪みを考慮すると、資産価格を参照しながら金融政策運営を行うことがのぞましいという分析結果がえられています。福永一郎「資本市場の不完全性下の金融政策」『日銀レビュー』2006-J-13、斉藤雅士・福永一郎「資産価格と金融政策:動学的一般均衡モデルによる分析と展望」金融研究所 Discussion Paper No. 2007-J-21を参照。
  2. 28Roger W. Ferguson, Jr, "Recessions and Recoveries Associated with Asset-Price Movements: What Do We Know?", FRB Jan.2005を参照してください。バーナンキ議長は理事時代に、金融政策は物価の安定に、プルーデンス政策は金融システムの安定に、役割分担をすべきだと述べています。コーン副議長もバブルに対して特別の行動をとることは望ましくないと結論付けています。Ben S. Bernanke, "Asset-Price Bubbles and Monetary Policy."FRB, Oct. 2002.Donald L. Kohn,"Monetary Policy and Asset Prices.",FRB,March,2006.を参照。なおFRBの講演原稿はFRBのホームページからダウンロードできます。
  3. 29木村武・藤原一平・原尚子・平形尚久・渡邊真一郎「バブル崩壊期の日本の金融政策—不確実性下の望ましい政策運営を巡って−」『金融研究』第26巻第2号、2007年4月を参照してください。前掲の山口泰前副総裁の論文も参照。
  4. 30前掲の翁・白川・白塚論文は、「中央銀行にとってバブルの経験から得られる最大の教訓は、経済が抱えるリスクを極力、潜在的段階で把握する『先行きを展望した(フォワード・ルッキング)金融政策』の重要性である」と述べています。また白川方明・門間一夫「物価安定を巡る論点整理」物価に関する研究会(第3回)2001年9月報告資料では「バブルは生成されるからこそその崩壊も起こりうるのであることを考えれば、まずはバブルの生成を未然に防止するように努めることが、やはり重要であろう」と述べています。
  5. 31金融制度調査会「日本銀行法の改正に関する答申」日本銀行法の改正に関する答申理由書(平成9年2月6日)を参照してください。新日銀法のフレームワークを決めた中央銀行研究会答申書にすでに同様のことが書かれています。中央銀行研究会「中央銀行制度の改革—開かれた独立性を求めて−」(平成8年11月12日)を参照。
  6. 32そのような捉えかたは、白塚重典「資産価格と物価:バブル生成から崩壊にかけての経験を踏まえて」『金融研究』第20巻第1号、2001年1月にも見られます。

(4)金利調整の現状評価

 さて、最後に現在の金利調整の適切さの程度について言及しておきたいと思います。図表14にありますように、現在のような実質金利がずっと続くとしたら実質経済成長率との関係でみて、金利がかなり低い状態にあることがわかります。仮に、低金利が経済・物価情勢と離れて長く継続するという期待が定着するような場合には、企業や金融機関などの行き過ぎた活動を通じて、中長期的にみて、経済・物価の振幅が大きくなったり、非効率な資源配分につながるリスクがあります。我々は物価上昇圧力が弱いもとで、これまで半年に一度というようなゆっくりとしたペースで金利を調整してきました。この間の金利調整を、オリジナルなテイラー・ルールに当てはめて評価しますと、多くの場合、利上げが遅すぎるという結果がでるのではないかと思います。ただ、経済構造についての考え方や損失の考え方で望ましい政策ルールはいかようにも変化することは前に述べたとおりです。

 私は不確実性の高い経済にあっては、フォワードルッキングな漸進主義が望ましいとずっと思ってきました33。経済物価見通しの情勢判断の不確実性が存在する中では、情勢を見極めながら少しずつ政策対応(金利スムージング)することが、経済・物価・金利の安定化のうえで頑健な政策運営だと考えられるからです34。これをテイラー・ルールで表すと、前期の政策金利とテイラー・ルールが示す政策金利との加重平均で今期の政策金利を決めるというかたちで正当化できます。オリジナルなテイラー・ルールよりは金利調整のスピードは落ちることになりますが35、これまでの金利調整のスピードが遅すぎたというようには必ずしも捉えていません。

 先行きの政策スタンスについては経済・物価情勢の変化、及び、それを取り巻く不確実性の状況に応じて政策金利水準を調整することになります。望ましい金利調整パスもそれにつれて変わりますので、今後どのようなスピードで金利調整するのが望ましいのか定かではありません。ただ、あまりにゆっくりとした金利調整を行うと、経済が過熱するリスクが高まります。もし遅すぎる対応であったことが判明し、将来の過熱リスクが高まれば積極的に対応しなければなりません。したがって、これからも過熱リスクの点検は怠れません。そのようなビハインド・ザ・カーブになることを極力避けるためには、経済情勢をかなり先まで見通して、ある程度早めに、かつ漸進的に対応することが望ましいと思っています。

 9月の金融政策決定会合での現状維持を受けて、直前にFRBが利下げしたのだから日本銀行が利上げしないのは当然だ、といった声をよく耳にしました。言うまでもないことですが、私どもの金融政策が、海外の中央銀行の政策によって縛られるということはありません。我々は、わが国の経済・物価情勢の見通しに基づいて政策判断を行っています。その際、あらゆる利用可能な情報をもとに分析した結果、最も蓋然性が高いと判断した見通しが標準シナリオです。したがって、FRBが政策を変更したかどうかが問題なのではなく、金融市場の動揺や米国経済の下振れが我々の標準シナリオの蓋然性にどのような影響を与えるのかが、政策判断を行う上でのポイントになります。

 いずれにせよ、今後の金融政策運営においては、「中長期的な物価安定の理解」に照らして、日本経済が物価安定のもとでの持続的な成長軌道を辿る蓋然性が高いことを確認し、リスク要因を点検しながら、経済・物価情勢の改善の度合いに応じたペースで、徐々に金利水準の調整を行うことになると考えられます。

  1. 33須田美矢子「日本経済の現状・先行きと構造調整」山口県金融経済懇談会における挨拶要旨、2004年10月を参照してください。前掲論文において、ブラインダーは漸進主義が合理的である理由として、オプション価格、系列相関のあるショック、ブレイナードの保守主義、市場の金利平準化、長期金利に対する期待形成を通じた効果の5点があげています。
  2. 34木村武・種村知樹「金融政策ルールとマクロ経済の安定性」『金融研究』第19巻第2号、2000年6月では、経済の先行き予想に基づいて政策運営を行うフォワード・ルッキング・ルールと経済の足元の動きのみに基づいたバックワード・ルッキング・ルールをとりあげ、金利スムージングの望ましい程度についてシミュレーション分析を行っていますが、フォワード・ルッキング・ルールの場合、漸進的な政策がマクロ経済の安定性の観点から望ましいとの結果を出しています。
  3. 35このような金利スムージングは、金融市場の安定性が望ましいということから、損失関数に金利のボラティリティを組み込むことで導きだすことができます。

4.おわりに

 最後に、当地で金融経済懇談会を開催するに当たりまして、事前の勉強等を通じて、いくつか感じたことをお話したいと思います。

 まず、三重県経済の最近の動向を簡単にみておきますと、景気は全国と同様、緩やかな拡大傾向を辿っています。すなわち、企業部門では、輸出が自動車関連や電気機械を中心に前年比2桁増の好調を維持するもとで、生産も高い伸びを続けています。一方、設備投資は、IT関連企業等による大型投資案件が一巡しつつあることに加え、当地における労働需給の逼迫を受けて生産能力の拡大余地が乏しくなっていることもあって、このところ増勢が鈍化しています。この間、良好な雇用環境に支えられ、個人消費は底堅く推移しています。

 ここで、三重県経済の状況を、もう少し長い目で振り返ってみたいと思います。改めて言うまでもなく、三重県といいますと、液晶や半導体といった先端産業をターゲットとする産業バレー構想のもと、自治体による企業誘致のモデルケースとして、シャープの亀山工場をはじめいくつもの企業誘致に成果を上げられてきました。そうした企業誘致の成果は、企業の生産活動に如実に現れています。図表15(1)は、地域別の鉱工業生産指数を中長期的にプロットしたものですが、2005年の鉱工業生産指数をみると、今回の景気拡大をリードする中部地方の中でも、特に三重県の指数水準が突出して高いのが分かります。誘致に成功したグローバル企業の生産活動や設備投資が三重県の生産水準引き上げに大きく貢献した結果であり、2005年の指数水準は47都道府県中トップとなっています。このように、企業の生産活動という側面にたってみれば、三重県は、積極的な企業誘致等によって経済の活性化に成功したモデルケースと言えます。

 しかし、三重県経済を議論する際によく話題になるのが、「南北格差」という問題です。すなわち、三重県の北部に位置する北勢地域に、IT関連や自動車関連といった製造業が集積していることに加え、拡大が期待された消費需要も、大型商業施設の開業等が相次ぐ名古屋圏に流出してしまうといったことから、好調な製造業部門の経済効果が、なかなか県南部にまで波及してこないと言われているようです。確かに、2005年の国勢調査を改めてみてみますと、三重県は2000年に比べて人口が増加している数少ない都道府県の一つですが、地域別にみれば、北勢+2.3%、中勢+1.2%と、県北部が増加しているのに対して、南勢-2.9%、東紀州-5.2%と、南部は減少しており、産業集積の進む北部へ人口がシフトしている姿が窺われます。しかしながら、一人あたり県民所得を地域別にみると(図表15(2))、今回の景気拡大局面で、確かに北勢地域の伸びは生産活動の活発化とともに高くなっていますが、中勢、伊賀、南勢のいずれの地域も、着実に拡大を続けています。また、東紀州地域についても、大きく下落しているわけではありません。このように、北勢地域の伸びに比べて低いからといって、悲観的になる必要はないと思われます。むしろ、全国で最も生産活動が活発化している地域に隣接しているということを、もっとポジティブに捉えても良いのではないでしょうか。

 いずれにせよ、三重県経済にとっての今後のポイントは、好調な製造業から非製造業への波及です。私は、農業と観光に注目しています。三重県には、全国的に有名なブランドが幾つもあります。そうしたブランド品を行政が認定することにより、官民一体となって農林水産物の育成と高付加価値化に努力されています。また、伊勢志摩国立公園や、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された熊野古道など、観光資源にも恵まれています。県では、「三重県観光新興プラン」を策定するとともに、農水商工部内に「観光局」を設置し、全国的な需要掘り起こしに力を注がれています36。最近では、民間を行政がバックアップするかたちで運営されている、伊勢神宮の門前町にある「おかげ横丁」が非常に活況を呈していると聞いています。

 現在、日本経済は、グローバル化が進展するもとで、企業の人件費抑制スタンスが根強く、なかなか好調な企業部門から家計部門への波及が進まないという構造的な問題を抱えています。そうした中で、小売やサービスといった非製造業が、どのように需要を掘り起こし、収益を上げながら生き残っていくのか、それぞれの地域で、官民挙げて試行錯誤されているのが実情です。三重県は積極的な企業誘致によって製造業部門の飛躍に成功された実績があります。今度は、是非、非製造業で、他県の参考となるようなモデルケースになっていただければと期待しています。

 私の話はこのくらいにしまして挨拶とさせていただき、皆様方との意見交換に移らせていただきたいと存じます。ご清聴いただきまして、まことにありがとうございました。

  1. 36「平成16年観光客実態調査」によりますと、三重県を訪れる観光客のほぼ6割が、県内か中部地方といった近隣の居住者であり、全国的な来訪者の掘り起こしが課題となっています。

以上