ホーム > 日本銀行について > 講演・記者会見・談話 > 講演・記者会見(2010年以前の過去資料) > 講演・挨拶等 2009年 > 日本金融学会における西村副総裁講演要旨「金融システムの安定性とマーケット・コンフィデンス」
【講演】「金融システムの安定性とマーケット・コンフィデンス」
日本金融学会における講演要旨
日本銀行副総裁 西村 清彦
2009年5月16日
英訳は、Financial System Stability and Market Confidenceをご覧下さい。
目次
- 1.はじめに
- 2.「信用バブル」の生成
- 3.金融危機の深化─コンフィデンスの喪失─
- 4.金融システムの制度上の論点
- 5.金融システムの再安定化
- 6.新たなセーフティ・ネットへのアプローチ
- 7.おわりに
1.はじめに
本日は、伝統ある日本金融学会で講演させていただく機会を頂戴し、誠に光栄に存じます。また、学界の一線でご活躍の方々を前にお話させていただく折角の機会でもございますので、本日は、半分は日本銀行副総裁として、そして、半分は学者西村として、皆様の今後の議論の活性化に資する講演をさせていただきたいと思います。
昨年9月のリーマン・ブラザーズ社の破綻を機に深刻度を増した今次金融危機は、各国の果敢な政策の効果もあって、現在、小康状態を迎えています。しかし、金融危機が実体経済に及ぼしたマイナス効果は大きく、IMFは2009年の世界経済の実質成長率をマイナス1.3%に下方修正しました。わが国の金融システムは、これまでのところ全体として安定しており、金融機関も健全経営を維持しております。しかし、わが国の金融機関を取り巻く収益環境は、厳しさを増していることも事実です。私どもも、銀行部門が十分な頑健性を備え、金融仲介機能を適切に発揮しているか、引き続き、注意深く点検していきたいと考えております。
各国政府・中央銀行は、足許の危機管理に奔走する中、G20首脳会合をはじめ、様々な場で、危機の再発を予防する施策を巡って、議論を戦わせています。しかし、そうした多くの議論は、規制を強化することに主たる関心が向けられており、既存の規制の有効性を再検討したり、規制を強化することの副作用を考察することが、やや後回しになっているという印象を受けます。
本来、金融システムの安定性維持を使命とする私どもがなすべきことは、これまでの政策が、金融機関を正しい方向に導いてきたのかという点を虚心坦懐に反省し、誤りがあればこれを正し、金融機関があるべき方向へと再び歩み始めることを支援することにあります。規制は、決して、金融業の成長を止めるものであってはなりません。規制は、内的、外的ショックを速やかに吸収する柔軟な金融システムの構築を最終的なゴールとすべきです。
本日は、金融危機の再発を防止するための制度設計について、既成の概念・手法に囚われることなく、幅広い視野から検討してみたいと考えております。もちろん、望ましい施策・規制の設計は、危機の背景に関する正確な理解なくしてはあり得ません。したがって、多少迂遠に感じられる方も多いとは思いますが、私の講演も、今回の危機に至る背景と危機が深化するメカニズムを整理することから始めたいと思います
2.「信用バブル」1の生成
最初に、今回の金融危機の原因を私なりに整理してみたいと思います。現在、我々は金融危機の最中にいます。世界の金融システムは、小康状態を保っているとはいえ、いつ新たな難題が噴出するかもしれません。我々は予断を許さない状況に置かれています。したがって、以下の整理は、現時点で我々が知り得る情報に基づいた暫定的な診断と理解していただければと思います。
今回の金融危機の発端が、米国のサブプライム住宅ローン問題にあったことに異論はないでしょう。ただし、それが米国であったとはいえ、一国の住宅ローンの一部に起こった問題が、それだけで、世界中の金融市場を混乱に陥れることは通常は考えられません。今回の金融危機の背景には、マクロ的かつグローバルな問題があったと考えるのが妥当でしょう。ITバブル崩壊以降の世界的な低金利や過剰流動性が、今回の危機の背景になったことは否定できないと思われます。そういった意味では、どこで、どのような形で、金融危機が勃発してもおかしくない状況であったと考えられます。
では、なぜ米国のサブプライム住宅ローンが危機の発端になったのでしょうか。1990年代の後半以降、米国では、経常収支の赤字が急速に拡大しました。その一方で、中国を中心とする新興アジアの国々や産油国では、経常収支の黒字が拡大を始めました。いわゆる「グローバル・インバランス」と呼ばれる現象です。こうした状況が、果たして、サステイナブルなものなのか、様々な議論が行われてきたことは、皆様の記憶にも新しいと思います。
実は、各国間で金融市場の発展度合いに大きな差があるような場合には、グローバル・インバランスのように一見不均衡に見える状況が、実は1つの均衡状態である可能性があります2。新興国や産油国では、株式市場が未整備であったり、預金金利が規制により低位で固定されるなど、国内の金融市場が不完全であることが多いと考えられます。このため、これらの国々では、所得の増大によって得た富を安全に保管するための金融資産が不足していました。これに対する解決策の1つは、海外の「安全」な金融資産を買うことです。情報通信技術の発達により、海外の資産を買うことは、以前にくらべれば遙かに容易になりました。そして、その「安全」な金融資産を供給したのが米国でした。新興国や産油国にとっては、これは資本輸出に当りますから、その裏側として、経常収支が黒字になります。逆に、米国にとっては、過剰消費に伴う貯蓄不足を資本輸入で賄っていることになるので、経常収支は赤字になります。このようにして、米国発で世界へと、いわゆる「信用バブル」が広がっていく素地が作られていきました。
もちろん、グローバル・インバランスのみが、経済のファンダメンタルズからかけ離れた「信用バブル」を生成する訳ではありません。ファンダメンタルズからの乖離が生まれるには、サブプライム住宅ローンから証券化商品を組成する際のプロセスに内在する問題がありました。この点を証券化ビジネスの拡大とエージェンシー問題という観点から読み解いていきましょう3。
証券化ビジネスの第1の特徴点は、「複雑化」という現象です。今日の証券化商品は、構造が非常に複雑になりました。何千ものサブプライム住宅ローンを束ね、次に、それらから発生するキャッシュフローを切り分けることによって、優先度の異なる複数の金融商品が作り出されます。さらに、そうして作られた金融商品をいくつも束ね、それを切り分けて、新しい金融商品を作り出すということも行われています。しかし、このように何度も合成と分解を繰り返していると、リスクの構造が複雑になり過ぎて、リスク量が容易に把握できなくなります。リスクがはっきりしないのなら、買わなければよいのですが、今回は、多くの投資家が、証券化商品に付けられている格付会社の格付を過信して、そうした複雑な証券化商品に次々と手を出していきました。
次に、「機能分化」と言う現象を証券化の特徴の第2の点として挙げておきたいと思います。米国で、サブプライム住宅ローンを貸し付けていたのは、主として、モーゲージバンクと呼ばれる金融業者です。彼等は、住宅ローンを貸し付けた後、それらの債権を保有し続けるのではなく、投資銀行等に売却します。さらに、投資銀行等は買い取った住宅ローン債権の集合を裏付けとした証券化を行い、投資家に売却します。こうした住宅ローンの貸付けから証券化商品の販売までの一連の工程は、OTD(Originate To Distribute)モデルと呼ばれています。OTDモデルの問題点は、モラルハザードを誘発しやすいという点です。モーゲージバンクは、住宅ローン債権を売却し、リスクを移転できるのであれば、住宅ローンの審査を真剣に行うインセンティブはありません。本来なら住宅ローンの申込者の信用度が基準に達していないようなケースでも、融資が実行されたであろうことは、容易に想像できます。これは、典型的なモラルハザードであり、「信用バブル」を生み出す素になったと考えられます。
こうしたプロセスを経て、巨額のサブプライム住宅ローン関連の証券化商品が、市中に出回ることになりました。しかも、最上位の信用度を表すAAAの格付を付与された商品が大量に組成されたのです。驚くべきことに、AAA格を付与された証券化商品の利回りは、AAA格であるにも拘わらず、同じくAAA格である米国債の利回りを大きく上回るケースが珍しくなかったようです。市場が正常に機能しているならば、こうした価格の歪みが長期にわたって維持されるということはありません。しかし、実際には、銀行も、格付会社も、投資家も、監督当局も、誰もこうした現象に異論を申し立てませんでした。おかしいと思わなかった人はもとより、おかしいと思った人も、見て見ぬ振りをしてきたのです。
こうしたおかしな状況が、なぜ長期間にわたって続いたのでしょうか。この点について、組織の中での人々の一種の「責任回避」の姿勢、英語の文献でしばしば言及されるPlausible Deniability ── もっともらしい否認根拠 ── という組織構成員の行動が、重要な役割を果たしたという議論があります4。証券化商品の売り手は、自分の商品には問題がなかったことの理由づけとして、他の業者も同じような金融商品を販売していて、誰も問題にしなかったのだから、と免責を主張しています。他の業者と同じく自分たちは商品価格を過去の実績と経験に基づいて計算していたのであり、さらに、格付会社のお墨付きまでもらっていた、つまり今回の価格下落は誰も予想し得なかったのだから、仕方がない、と釈明しています。実は、証券化商品の買い手の機関投資家も、似たロジックで自分たちが買ったことの正当化をしています。曰く、他の買い手も同じような金融商品を買っていて、誰も問題にしなかったのだから、と釈明しているのです。このPlausible Deniabilityが、証券化商品による「信用バブル」の発生とそれが長期間にわたって継続した1つの理由と考えるのは自然に思います。
このような「信用バブル」の生成に加え、今回特徴的であった点として、ほとんどの市場参加者が、今回のような深刻な金融危機は実際には起こらないと思いこんでいたことを指摘できます。市場参加者は、なぜそのように考えるに至ったのでしょうか。それには、「大いなる安定」("Great Moderation")という現象が関係しているように思われます。1990年代入り後、米国をはじめ世界各国で、GDPをはじめとする実体経済指標のボラティリティが顕著に低下し、金融指標のボラティリティも安定的に推移していました。こうした状況が長く続いたため、市場参加者は、先行きも同じ状況が続き、経済的混乱は起こり得ないと錯覚するようになったと考えられます。
こうした錯覚は、米国の中央銀行であるFRBのグリーンスパン前議長の名前を冠した「グリーンスパン・プット」、つまり、たとえ金融危機が起こっても、グリーンスパン前議長やFRBが金融政策で何とかしてくれるに違いないという期待によって強化されたという見方があります。グリーンスパン・プットが本当であるならば、市場参加者にとって、金融危機のような稀にしか起こらないリスク、いわゆるテール・リスクは発生しないという前提でリスクテイクを行うことは合理的です。つまり、市場で形成されたオーバー・コンフィデンスは、金融政策に対する市場参加者の思い込みが原因であったとも考えられます。
- 1「バブル」という言葉は、本来経済学的に厳密に定義して使うべきであるが、政策の議論等にみられるとおり、曖昧に使われることが多い。ここでは、厳密な定義ではなく、通称ということで、「信用バブル」と括弧付けにしておくことにする。
- 2Cabarello, R. J. (2006), "On the Macroeconomics of Asset Shortage," The Role of Money: Money and Monetary Policy in the Twenty-First Century, The Fourth European Central Banking Conference, 9-10 November 2006, edited by Andreas Beyer and Lucrezia Reichlin, pp. 272-283.
- 3より詳しくかつ若干異なる視点からの分析として以下を参照。
西村清彦(2007)、「サブプライム問題の教訓:証券化格付けの信頼カギ」、日本経済新聞「経済教室」、2007年12月14日 - 4Calomiris, C. W. (2008), "The Subprime Turmoil: What's Old, What's New, and What's Next," prepared for Federal Reserve Bank of Kansas City symposium on "Maintaining Stability in a Changing Financial System," Jackson Hole, Wyoming, August 21-23, 2008.
3.金融危機の深化―コンフィデンスの喪失―
次に、「信用バブル」の崩壊とそれに続く金融危機の深化について、お話したいと思います。今次金融危機の特徴の1つは、カウンターパーティ・リスクの顕現化を通じて、流動性危機が発生したという点です。2007年7月10日、S&PとMoody'sが、サブプライム住宅ローンを裏付資産とするRMBS(住宅ローン債権担保証券)のいくつかの格付を見直すと発表しました。これに伴って、これらの商品を裏付資産とするABCP(資産担保コマーシャル・ペーパー)でAAAの格付を持つものも引き下げられることになりました。実は、この市場全体から見れば端の方のさほど重要ではないリスクアセットに生じたそれほど異常とは思えない格付の変化が、直接的に世界の金融システムを揺るがすことになったのです。
米国では、MMF(マネー・マーケット・ファンド)は極めて安全な金融資産と考えられてきました。その安心感の1つの源泉は、MMFはAAA格の資産にのみ投資することが許されている、ということにありました。このため、ABCPが格下げされたとき、MMFは再投資に応じませんでした。当然、ABCPを組成し、これを通じて資金調達を行っていたファンドは、資金調達難に陥りました。ベア・スターンズ社傘下のファンドが破綻したり、BNPパリバ銀行が傘下のファンドの応募と償還を凍結せざるを得なくなりました。また、銀行がABCPを発行するために作ったSIV(ストラクチャード・インベストメント・ビークル)も、資金調達先を確保することができず、銀行が流動性補完を行わざるを得ない状況に追い込まれました。銀行はそれぞれの間で頻繁に貸借のやりとりをしていますが、ここで突然カウンターパーティ・リスク、つまり取引の相手が突然破綻してしまうかもしれないというリスクが認識されるに至ります。もしかするとどこかの銀行が突然流動性を確保できず、倒産することになりかねないと思われる状況になった訳です。すると、銀行間市場から一気に流動性が消滅し、8月9日には、流動性危機が現実のものとなりました。これが、いわゆる「パリバ・ショック」です。流動性の逼迫した銀行の中には、欧州系の銀行も多く、こうした事態に直面した欧州の中央銀行であるECBは、急遽、短期金融市場に多量の流動性を供給する準備があるとの声明を発表しました5。
流動性危機をもたらした背景として、金融機関のバランスシートにおける行過ぎた長短ミスマッチの存在を指摘する議論があります。確かに、今回の金融危機の経緯を仔細に観察すると、長短ミスマッチという問題に加えて、「流動性の不確実性」という全ての金融商品に内在するより根源的なリスクの存在が浮かび上がってきます。しばしば、「流動性は、存在するときは認識されず、消えてしまって初めて分かるものである」と言われます。例えば、ABCPは、商品設計上は、いざとなればすぐに市場で売却できるものと考えられていましたが、実際に危機が発生したときにはすぐには売れない商品になっていました。とはいえ、もし長めの期間の資金調達を行っていれば、流動性の危機の際に、時間の余裕を持つことができ、何らかの対応が可能だったかもしれません。このように、全ての可能性を前提に資産選択するのは難しいにしても、流動性の不確実性に注意を払い、資産・負債のマチュリティ・ギャップを常に評価しておくことは、金融機関の健全性を高める上で重要であると考えられます。
また、今回の金融危機では、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)をはじめとする金融派生商品が、金融市場の不安定性を増幅したという意見をしばしば耳にします。CDSについては、その是非を巡って様々な議論がなされていますが、その主要な取引の場であったOTC(Over-the-Counter)取引市場の機能不全が金融市場全体に対する信頼を危うくしたということは間違いないでしょう。2008年9月15日、リーマン・ブラザーズ社が経営破綻しました。そして、これと前後して、市場でAIGの経営危機説が浮上し、同社の株価が暴落しました。AIGは巨額のCDSプロテクションを売っており、その中には、リーマン・ブラザーズ社を参照企業とするものも多く含まれていたと思われます。AIGが破綻すると、CDSによるヘッジは無効になってしまいます。この場合、AIG相手に取引していた金融機関が、今度は他の金融機関と結んでいたCDS契約の履行ができなくなってしまう等、連鎖反応が生じる可能性が出てきました。このようにして、カウンターパーティ・リスクが突如顕現化するに至りました。こうした事態に直面し、米国政府は、AIGを政府の事実上の管理下に置くことを決定せざるを得ませんでした。
CDSの多くは相対で取引されていました。カウンターパーティ・リスクがこの相対取引の直接の関係者の間に止まっている限り、市場全体で広範にこのリスクが認識されることはありません。市場全体でこのリスクが意識されるようになったのは、市場が、相対取引のネットワークを通じて、市場参加者同士が複雑かつ密接に関係していることを認識したからです。どこか一部の取引でカウンターパーティ・リスクが認識される、つまり取引相手が倒産するリスクがあると考えられると、この取引相手と取引している相手も連鎖倒産するリスクが出てきます。そして、この取引相手と取引している相手にも・・・と、最初のカウンターパーティ・リスクを起点として、新たなカウンターパーティ・リスクが次々に認識されていきます。このように、今回の金融危機が拡大する過程で、「ネットワーク外部性」が大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。カウンターパーティ・リスクは、取引の集中化、いわゆるセントラル・カウンターパーティを制度化することで大きく減少しますが、実際には、複雑な取引が多く、セントラル・カウンターパーティの実現を難しくしていることも事実です。
私は、現在金融市場に蔓延している閉塞感は、単なる「信用バブルの破裂」では説明し切れない現象であると考えています。バブルが破裂すると、経済はファンダメンタルズに回帰すると考えるのが普通です。つまり、経済はあるべき姿に戻るということです。では、現在が経済のあるべき姿なのかといえば、おそらく全ての人が「ノー」と答えるでしょう。今日の世界経済は、あるべきレベルから乖離して、かなり低いレベルにまで落ち込んでおり、そこから這い上がれないでいます。
これは、市場に対するコンフィデンスが失われていることが原因であると考えられます。コンフィデンスを喪失すると、市場参加者は、もしかしたら全く予想もつかない不確実な世界に直面しているかもしれないという強い恐れを抱くようになります。この場合、何とか合理的な行動をしようとする市場参加者にとって自然なことは、最も悲観的なケースを想定して、その中で最善を尽くすように行動することです6。このような市場参加者は、明るいニュースよりも、考えられ得る最悪な状況がどうなっていくか、という暗いニュースに反応するようになります。さらに、こうした状況では、市場参加者は、コンフィデンスがある程度回復するまで動かないという戦略を採る傾向があります7。こうした個々の市場参加者のレベルでの合理的であろうとする行動が、市場全体の機能回復を遅らせるという「合成の誤謬」の状況が生じてしまっていると考えられます
- 5MMFは実は後述する2008年9月の「リーマン・ショック」に際しても、危機を深化させる役割を果たすことになる。独立系の主要なMMFであるReserve Primary Fundはリーマン・ブラザーズ社のCPを多く保有していたが、その破産によって大きな損害を被り、当該ファンドは"break the buck"(額面1ドル当たりの純資産が1ドルを下回る)状態となった。このためMMF全体に対する信認が大きく低下し、MMFから急激な資金流出が起こり、短期資金市場を大きく混乱させることになった。
- 6Nishimura, K. G., and H. Ozaki (2006), "An Axiomatic Approach to ε-contamination," Economic Theory, Vol. 27, 2006, pp. 333-340.
- 7Nishimura, K. G., and H. Ozaki (2007), "Irreversible Investment and Knightian Uncertainty," Journal of Economic Theory, Vol. 136, pp. 668-694.
4.金融システムの制度上の論点
ここでは、今回の金融危機の背景をマクロの金融政策運営と金融システムの制度設計という2つの観点から探っていきたいと思います。最初に、マクロ金融政策を主にバブルとの関係から考えてみましょう。
中央銀行にとって、バブルの発生・崩壊をリアルタイムに察知することは極めて難しい問題です8。バブルへの対処法としては、「バブルは生成時点で認識することは困難であるので、崩壊してから対処する」という考え方と「資産価格等、様々な指標を観察することによって、バブルの予兆を把握し、早めに対処する」という2通りの考え方があります。いずれの立場をとるにしても、バブルの発生・崩壊をリアルタイムに認識することは困難であるという点では共通しています。
また、大きく膨らんだバブルが一旦崩壊し、金融システムが毀損されると、今次金融危機で見られていますように、金融政策の効果は極めて限定的なものに追い込まれます。加えて、バブルの生成から崩壊までの過程で、先ほど申し上げた「グリーンスパン・プット」のような期待が市場参加者の間に広がると、市場参加者のリスクテイクを助長することに繋がる可能性があります。
このように、今回の金融危機は、金融システム、延いては経済を安定させるための金融政策を中央銀行としてどのように運営していけばよいのかという非常に大きな論点を提起しているように思われます。この論点を詳細に検討することは極めて重要なことではありますが、本日の私のお話では、この論点にはこれ以上立ち入らず、もう1つの重要な論点であります金融システムの制度設計に、焦点を当てていきたいと思います。
欧米では、今回の「信用バブル」を機に、規制の枠組みを見直そうとの機運が高まっています。背景として、1990年代以降に顕著となった金融規制緩和の動きがあります。米国では、1933年以来、グラス=スティーガル法によって、銀行業務と証券業務が分離されてきました。グラス=スティーガル法は、大恐慌における反省から生まれたもので、銀証分離は、銀行の健全性を高め、預金者を保護することが目的でした。しかし、世界的な規制緩和の流れの中、1999年、グラム=リーチ=ブライリー法が制定され、銀証分離原則が事実上撤廃されました。これによって、大手商業銀行が、証券業務に参入することができるようになりました。
また、2004年、SECが投資銀行に対するレバレッジ規制を緩和しました。この規制緩和は、今回の金融危機を語る上で決定的に重要です9。この規制緩和もあって、米投資銀行のレバレッジは、12倍から33倍へと急拡大したと言われています。
近年、銀行規制の外にある金融業者の存在、いわゆる「影の銀行システム」の役割が大きくなってきました。影の銀行システムの興隆を代表するのはヘッジファンドやプライベート・エクイティ・ファンドです。これらは、銀行規制に拘束されずに自由に金融取引を行うことができる金融業者であり、レバレッジを効かせて、大きな収益を上げていました。商業銀行に比べ規制の緩かった投資銀行も、「影の銀行システム」に含めて考えてよいでしょう。破綻してもシステミック・リスクを引き起こす危険がないならば、影の銀行システムが大きくなること自体、特に問題はありません。しかし、大手の商業銀行は、ヘッジファンドを傘下に持ち、特別目的会社を作って業務を移管するなどして、影の銀行システムと密接な関係を築いていました。そして、そのパフォーマンスが、大手商業銀行の健全性に影響を及ぼすまでになっていたのです。また、流動性不足に直面した影の銀行システムが、資産売却を加速させたことが、資産価格のスパイラル的下落をもたらし、システミック・リスクの一因になるなど、影の銀行システム自体がグローバル金融システムに及ぼす影響も拡大しています。今回の金融危機は、こうした影の銀行システムについても、何らかの規制が必要であるということを示唆しているように思われます。
続いて、バーゼル合意(BIS規制)と金融危機の関連について、自己資本比率規制のプロシクリカリティを重要な論点として挙げておきたいと思います。景気が好い時には、ダウンサイド・リスクが低下するのに対応して所要自己資本額が小さくなるため、銀行貸出が増加し、景気が加速されます。逆に、景気が悪い時には、ダウンサイド・リスクが増加するのに対応して所要自己資本額が大きくなるため、銀行貸出が減少し、景気に下押し圧力がかかります。このように、自己資本比率規制には、景気循環を増幅する作用があるとされています10。今回の金融危機でも、この自己資本比率規制のプロシクリカリティが、景気の落ち込みを激しくしていると批判されています。ただし、規制のプロシクリカリティが、どの程度深刻なものなのかと言う点については、まだ意見が収斂している状況ではないように思います。規制のプロシクリカリティについては、改めて定量的分析を行うことによって、客観的に議論を進めていくことが肝要です
- 8白川方明(2009)、「経済・金融危機からの脱却:教訓と政策対応―ジャパン・ソサエティNYにおける講演の邦訳―」、日本銀行、2009年4月23日
- 9Blinder, A. S. (2009), "Six Errors on the Path to the Financial Crisis," The New York Times, January 25, 2009.
- 10Kashyap, A. K., and J. C. Stein (2004), "Cyclical Implication of the Basel II Capital Standards," Economic Perspectives, 1Q/2004, Federal Reserve Bank of Chicago.
5.金融システムの再安定化
ここからは、個別金融機関の健全性を維持するための諸規制から金融システム全体の安定性を維持するためのセーフティ・ネットまで、最近の議論をトレースしながら、若干の理論的な考察を行っていきたいと思います。
その際、いわゆる「3つのC」の議論が参考になると思われます11。3つのCとは、Comprehensive、Contingent、Cost-effectiveの頭文字をとったものです。Comprehensiveな規制とは、「包括的な規制」という意味ですが、「抜け穴の無い規制」と言った方が分かり易いでしょう。あらゆる金融機関に網をかけておかなければ、規制が強化されればされるほど、規制の厳格なところから緩やかなところへと資金が逃げてしまいます。
Contingentな規制とは、直訳すると、「状態に応じた規制」です。具体的には、次のようなことがイメージされています。システミック・リスクの予防の第一歩は、好況期におけるオーバー・コンフィデンスを防止することです。しかし、実際にシステミック・リスクが顕現化した場合には、規制が景気の足を引っ張ることとなっては困ります。コンフィデンスの喪失が激しい場合には、コンフィデンスを回復するための政策的なインセンティブ付けが必要かもしれません。このように、好況期に厳しく、景気後退期に緩くなる規制が望ましいという基準です。
最後は、Cost-effectiveな規制です。この概念は、規制を評価する際に重要です。これは、規制として同じ効果が得られるならば、最も安価な方法を採用すべきであるという基準です。例えば、同じ額の自己資本を積ませるにしても、景気後退が実際に始まって、資本コストが高くなっているときよりは、資本を集めやすい好況期に積ませた方がよいということです。公的資金の使い途を検討する際にも、この基準は重要になります。資本注入と不良債権の買取りのいずれかを選択しなければならないとき、政策効果だけでなく、効率性を同時に考えなければならないからです。
現在、バーゼル銀行監督委員会をはじめ、様々なフォーラム、利益団体、アドホック・グループが、今後の金融規制のあり方について、様々な提案を行っています。上述した3つのCの考え方は、そうした提案を吟味する際の評価ポイントになると思われます。以下、現時点で国際的に議論が進められている規制の見直し提案をいくつか取り上げ、それらが持っている意味に考察を加えていこうと思います。その際、規制を「事前的な施策」と「事後的な施策」の2つに分けて考えるのが分かりやすいと思います。これらは、「平時の施策」と「緊急時の施策」と言い換えても構いません。
- 11Rajan, R. G. (2009), "Cycle-Proof Regulation," The Economist, April 8, 2009.
(1)事前的な施策
現在、バーゼル銀行監督委員会を中心に、自己資本比率規制のプロシクリカリティ緩和に関する議論が進められています。前にも説明しましたとおり、現在の自己資本比率規制は、プロシクリカルな性質を持っていると考えられています。これに対し、可変的な「バッファー」の導入が検討されています。これは、好況期に資本を積み増しておき、景気後退期にそれを取り崩してもよいとするものです。しかし、先程の3つのCとの関連で難を挙げれば、自己資本比率規制は、単に銀行だけでなく、全ての広い意味での金融機関を対象とするものでなければ意味がないという点に注意が必要です。
また、定性的には望ましいことが分かっていても、実際に運用するとなると、様々な問題に直面します。例えば、好況期に資本を積み増すとして、具体的にどれほどの資本をどのようなペースで積み増す必要があるのかという問題があります。さらに、そもそもどのようにして景気循環を認定するのかという難しい問題があります。規制を運用していくためには、いつからバッファーを取り崩してよいのか、リアルタイムに判定する必要があります。しかし、わが国の景気基準日付の例を見ても分かるとおり、景気の山・谷を判定するには、長い時間がかかるのが常です。また、各国で景気循環に時間的なズレがある場合の取扱いも明示する必要があるでしょう。これらの問題は、規制が具体化するまでに解決されなければならない課題のごく一部に過ぎません。
流動性モニタリングについても、現在、国際的な議論が行われています。先にもお話しましたとおり、今回の金融危機は、当初、流動性危機として顕現化しました。しかし、当時、監督当局による国際的に活動する銀行の流動性モニタリング体制は、十分とはいえませんでした。そこで、監督当局が共通の流動性指標を用い、情報を共有することによって、国際的なモニタリングの実効性を上げようという議論があります。現在、どのような流動性指標を用いるのが適当かという議論が進められているところです。ただ、流動性モニタリングの効率性の程度は国によって大きく異なります。我が国においては対象機関の協力を得て、詳細なモニタリングがなされていますが、必ずしもモニタリングの質が高くない国もあります。したがって、one-size-fit-all型を志向する議論は現実的ではなく、各国の状況に合わせた、柔軟な仕組みが必要であると考えています。
このことを頭に置きながら、流動性の問題に関して興味深い考え方がありますので、参考までに、ご紹介しておきたいと思います12。今回の金融危機を流動性危機という観点から見たとき、ファンド等のバランスシートにおける行き過ぎた長短ミスマッチが原因であったことは間違いありません。したがって、金融危機を防ぐためには、そうした長短ミスマッチを解消するインセンティブを生み出す規制が望ましいと考えられます。この点について、資産・負債のマチュリティ・ミスマッチを所要自己資本額にリンクさせることは1つの解決策を提供することになります。例えば、オーバーナイトでマネー・マーケットから資金調達している銀行よりも、期間の長い預金で資金調達している銀行の方が、所要自己資本額が低くなるようにします。こうしたスキームによって、特に、負債側のマチュリティを長くするインセンティブを銀行に与えることができるという考え方です。マチュリティ・ミスマッチを所要自己資本にリンクさせることが望ましいか否かはともかく、金融機関が適正な流動性を確保しているかを絶えずモニターすることは、金融危機の発生を事前に察知する上で有用な手段であることは言うまでもありません。
本年4月のG20会合で、金融安定化フォーラム(FSF)が「金融安定理事会」(FSB)に改組されることが決定されました。これまで、バーゼル銀行監督委員会、証券監督者国際機構、保険監督者国際機構、国際会計基準審議会という4つの国際機関は、独自の判断により活動を行っていました。今後は、FSBが一種の上位機関として、統括的な機能を担うことが期待されています。この措置の狙いは、業態の違いを超えて、金融システム全体としての規制等の整合性を図ることにあります。さらに、G20会合では、ヘッジファンドに対する規制を行うことも決められました。これは、影の銀行システムに規制の網をかぶせるための第一歩です
- 12Brunnermeier, M., A. Crockett, C. Goodhart, A. Persuad and H. Shin (2009), "The Fundamental Principles of Financial Regulation," International Centre for Monetary and Banking Studies & Centre for Economic Policy Research, Geneva Report on the World Economy, Vol. 11, 2009.
(2)事後的な施策
現在、世界経済は金融危機の最中にあります。したがって、これからお話する事後的な施策は、今まさに各国政府・中央銀行が実施している政策そのものです。
欧米諸国を中心に、金融システム安定化策の一環として、流動性不安や資金調達難への対応が行われています。これらは、「市場性資金調達に対する政府保証の付与」と「預金保護の拡充」の2つに分けられます。市場性資金調達に対する政府保証は、金融市場が逼迫する中、金融機関債の発行を中心とする市場調達環境の安定化を図ったものです。また、多くの国で、預金保険制度における預金保護上限の引上げや個人預金の全額保護等の措置が取られています。これによって、金融システムに対する預金者等の不安が沈静化され、今のところ、預金取付け等の収拾が困難な混乱は回避されており、預金による安定的な資金調達を確保することができているようです。
今回の金融危機では、各国が包括的政策パッケージをまとめて、対応してきました。公的資本の注入はそのうちの重要な柱の1つです。ただし、公的資金注入措置の具体的内容は、国により、また、同じ国でも局面によって異なっています。例えば、健全行も含めて一斉かつ予防的に注入を行うケースがある一方、多額の損失を抱え、自己資本が大きく毀損した金融機関の救済を主目的に実施されるケースもありました。また、注入に当っての出資形態、商品性、付帯条件にも、様々に異なる対応が採られています。
また、欧米諸国では、損失金額の上限を確定するための措置として、政府による不良資産の買取りや、不良資産に関する損失保証等が実施されています。これらの措置は、対象資産のバランスシートからの切り離しの有無、対象資産から発生する損失が会計上認識されるタイミング、個別資産の価格を評価することが必要かどうかなどの点で異なっていますが、いずれも、保有資産に関する不確実性を除去し、金融機関の財務の健全性への懸念を払拭するという共通の目的に向けて実施されています。
1990年代の後半、金融システム不安に直面したわが国では、最初に不良資産の買取りに着手し、その後、公的資本の注入へと政策を進めていきました。対照的に、今回の金融危機では、欧米諸国は公的資本注入を最初に行い、続けて、不良資産の買取りへと政策を進めています13。これには、不良資産の査定の難しさと危機の進展するスピードの速さが影響していると考えられます。つまり、今回不良資産と化しているのは、住宅ローン関連等の複雑な証券化商品であり、これらは、現在、市場機能が著しく低下しており、価格の設定が容易ではありません。米国では、官民共同の不良資産買取基金を創設して、不良資産のバランスシートからの切り離しを図ろうとしていますが、こうしたシステムが意図されたとおり上手く機能するか、今後の動向が注目されるところです。実体経済の悪化に伴い、不良資産も証券化商品から商業ローン等に移りつつあり、推移を注意深く見守る必要があります。
国際金融資本市場における混乱の影響は、国や地域によって様々です。欧米では、実際に金融システムに動揺が見られましたが、わが国の金融システムは全体として安定性を維持しています。ただし、わが国でも、収益の悪化や株価の下落が、自己資本を下押しし、これが金融仲介機能を低下させないとも限りません。そこで、わが国では、金融仲介機能を維持するという政策課題に応えるべく、システム面で、様々な施策を講じてきました。昨年12月16日には、『金融機能強化法』が改正され、公的資本注入のための法律が整えられました。また、日本銀行も、本年4月10日に、銀行の資本増強を支援するために、金融機関向け劣後特約付貸付、いわゆる劣後ローンの供与を行うことを決定しました。さらに、それに先立つ2月3日には、金融機関による株式保有リスクの削減を支援し、これを通じて金融システムの安定性を確保するという観点から、金融機関からの株式の買い入れを再開することとしました。これは、株式の保有が多いわが国金融機関の実態に対応したわが国特有の施策で、政府も3月に同様の買い入れを再開しています
- 13米国では、日本と同様に、当初M-LECという民間で不良資産を買い取るスキームの導入を図ったが実現せず、2008年9月以降は、欧州諸国と同様に公的資金の導入に踏み切っている
6.新たなセーフティ・ネットへのアプローチ
従来の規制を拡大・強化しようという政治的な動きとは別に、金融システムの安定化へ向けた全く新しいアプローチも提案されています。今回の金融危機で如実に示されたのは、金融危機の状況に至ったとき、つまりマクロ・システミック・リスクが顕現化したとき、銀行が資本増強を行うことが著しく難しくなるということでした。逆に言えば、金融危機のとき銀行の資本増強を容易にするようなセーフティ・ネットを作っておけば、金融システムの安定化に大きく貢献します。この点に着目したのが、これから説明する新しいアプローチです。ここでは、まず通常の保険の発展形である民間の「資本保険」(Capital Insurance)の考え方を最初に紹介したいと思います。次にその問題点を指摘しつつ、それを克服するものとして、いわゆる「パブリック・プライベート・パートナーシップ」の形の資本保険の可能性を紹介します。さらに、これら以外にも、様々なスキームが提案されていますので、それらのうちいくつかを取り上げて、ご紹介します。これらのスキームは、危機の下で必要が生じたときにできるだけ市場にインパクトを与えずに資本増強を可能にするセーフティ・ネットであり、いわゆる「条件付き資本」(contingent capital)と総称することができます
(1)民間による「資本保険」14
まず、民間による「資本保険」について、その概要をお話ししましょう。このスキームはその名のとおり保険契約です。通常の保険契約での被保険者に当たるのが銀行で、保険会社に当たるのが投資家です。保険契約が成立すると、銀行は投資家に保険料を支払います。これに対し、投資家は責任準備金を「金庫」に保管します。金融危機が発生すれば、「金庫」から保険金が銀行に支払われます。それを使って、銀行は資本を増強することができるのです。もし、契約期間満了まで金融危機が発生しなければ、「金庫」の責任準備金が投資家に返還されます。これが資本保険の基本的なアイデアです。
ここで、被保険者として、どのような銀行が想定されているのでしょうか。この『民間による「資本保険」』の提唱者であるカシャップ教授等は、バーゼル合意(BIS規制)の対象となる全ての金融機関が対象となると述べています。重要なことは、システミック・リスクを引き起こす可能性のある全ての金融機関が加入することです。彼等は保険契約を結ぶか否かは任意であるとしていますが、この点は、システミック・リスクを回避する手段としての実効性に関わる重要な論点ですので、後にもう一度立ち返って、議論を深めたいと思います。
次に、保険者として、どのような投資家が想定されているのでしょうか。カシャップ教授等は、バーゼル合意の対象となっていない全ての投資家が保険を提供し得るとしています。もし、投資家がバーゼル合意の対象であるならば、金融危機が起こったとき、ある銀行から別の銀行へと資本がトランスファーされるだけで、銀行システム全体としての健全性は改善しません。つまり、金融危機の勃発に対して金融システムの安定性を維持するためには、システムの外から資本を注入することが必要なのです。彼等は、投資家として年金基金やSWF(ソブリン・ウェルス・ファンド)を念頭に置いているということですが、問題は、これらの投資家が必ず資本保険に投資してくれるとは限らないという点でしょう。
最後に、どのような事象をトリガーとして保険金が支払われるかという「保険事故」の認定の問題があります。カシャップ教授等は、「保険契約をした全ての金融機関の損失額の合計の移動平均、例えば4四半期平均が、ある閾値を超えたとき」という基準を提案しています。彼等の提案のポイントは、個別の銀行の損失額ではなく、銀行全体の損失額が重要であるとした点です。これは、彼等の提案する資本保険が、あくまで、システミック・リスク、あるいは、金融危機に対する保険であるということを反映したものです。ただ、今回のような明らかな金融危機はともかく、何をもって金融危機が発生したとみなすのか、判定が微妙になることも多いでしょう。これは、どれほど速やかに、誤謬なく、資本増強が可能かという点にも関わる問題であり、危機管理という意味で重要な論点です。
カシャップ教授等の提案は、かなり新奇には見えますが、資本が一定額以上になるように、保険をかけるというものであり、金融システムにセーフティ・ネットを提供しようとするものです。また、彼等の提案は、外部不経済の内部化という観点からも、優れた提案であると言えます。1990年代のわが国では、金融システムの安定化のために、銀行に巨額の資本が注入されました。今回の金融危機でも、欧米金融機関に巨額の資本が注入されています。早くも返済を見込んでいる先もありますが、注入額が増え続けている金融機関もあります。これらの資本が返済されない場合、そのコストは納税者が被ることになります。「信用バブル」の発生についてお話したときにも触れましたが、金融機関は、問題が発生しても政府や中央銀行が何とかしてくれると思って、過剰なリスクテイクを行っていました。これは、金融機関が、システミック・リスクという外部不経済を発生させながら、その処理費用を負担しないで、収益のみを追求している状況と描写することができます。彼等の提案は、保険料という形で、システミック・リスクが顕現化した場合のコストを負担することになっています。これは、外部不経済を内部化することを意味しています。
ただし、カシャップ教授等の提案にも、多くの問題点があります。まず、彼等の資本保険は、あくまで私的なものであり、保険を提供する主体は民間の投資家です。民間の投資家のみで、システミック・リスクを食い止めるに足る巨額の責任準備金を用意することができるのでしょうか。彼等が期待している年金基金やSWFは果たしていつでもあてにできるものなのでしょうか。もちろん、保険料を上げれば十分な投資家を引き付けられるのかもしれません。しかし、その場合の保険料は高過ぎて、ほとんどの金融機関は手を出せないかもしれません15。
また、金融危機が深刻度を増し、その結果、当初想定していた金額を超える資本注入が必要になることもあり得ます。一旦、金庫の責任準備金が払底した場合は、やはり、システミック・リスクが顕現化すると予想されます。特に、今回のように金融危機がグローバルに拡がると、民間の資金のみでは足りなくなる可能性が高まります。このような事態に至って、コンフィデンスの喪失を食い止めることは、果たして可能であるのでしょうか。やはり、大きな損失については、政府による追加的な保険をセットにして、資本保険に対するコンフィデンスを維持する必要があるのではないでしょうか。
カシャップ教授等の提案では、資本保険は任意加入になっています。この場合、金融システムの安定性に影響する全ての金融機関が資本保険を購入するとは限らないでしょう。フリーライダーの問題です。特に、自分が「大き過ぎて潰せない」(too big to fail)先であると考えている銀行は、次のような意味でも、資本保険を買わない可能性が高いと予想されます。つまり、自らを「大き過ぎて潰せない」先と考える銀行は、自分が破綻すれば、システミック・リスクが発生するので、資本保険への加入の有無とは無関係に、政府は必ず救済してくれると予想します。もし、この予想が正しいならば、この銀行に、資本保険に入るインセンティブはないということです。つまり、政府が、絶対に金融危機を発生させないと考えている限り、誰も資本保険を買わないということになります。
資本保険のプライシングをどのように行うのかも問題になります。通常の保険商品の場合、大数の法則に基づいて、プライシングすることが可能です。しかし、金融危機という事象は、滅多に発生しない「テール・イベント」であるか、あるいは、確率分布が全く知られていないもののいずれかであると考えられます。いずれにせよ、資本保険のプライシングに、大数の法則を適用することはできません
- 14Kashyap, A. K., R. G. Rajan and J. C. Stein (2008), "Rethinking Capital Regulation," prepared for Federal Reserve Bank of Kansas City symposium on "Maintaining Stability in a Changing Financial System," Jackson Hole, Wyoming, August 21-23, 2008.
- 15ブラインダー教授も、昨年のカンザスシティ連銀主催シンポジウムで、カシャップ教授等の論文に対し同じ主旨のコメントを行っている
(2)パブリック・プライベート・パートナーシップとしての資本保険
このように、カシャップ教授等の資本保険スキームには多くの問題点があります。しかし、それらのうちのいくつかは、民間の資本保険を公的機関がバックアップすることによって、解決することができます。まず、公的機関が保険の一翼を担うことによって、十分なサイズの責任準備金を用意することができます。しかも、実際には責任準備金を置く必要もありません。保険事故が起こった時の財政支出をコミットしておけばよいのです16。さらに、不確実性の著しく大きな事象に対する場合、民間保険料は高くなり過ぎますが、政府の関与はそれを防ぐことにもなります17。
こうした保険プログラムは、その効率性を確保するためには、民間のノウハウを十分に活用する必要があるように思います。したがって、効率性に優れた民間で組成した資本保険を国が事実上「再保険」するという官民共同の形を採ることは十分にあり得る選択肢でしょう。わが国では、「地震保険」がそうした形で提供されています。こうしたパブリック・プライベート・パートナーシップとしての資本保険の方が、民間におけるノウハウを活用することができるため、公的機関のみが資本保険を提供するよりも効率的な運用が可能になるかもしれません。
しかし、公的な性格を併せ持った資本保険を提供するだけでは完全ではなく、これに強制加入という要素を組み合わせる必要があります。具体的には、システミック・リスクを引き起こす可能性のある金融機関は、すべて、この保険プログラムに強制的に加入させる必要があります。これによって、フリーライダー問題が解消されます。また、金融機関が選択するなら、この保険プログラムからオプト・アウト(脱退)することを可能にする必要があるかもしれません。しかし、この場合、その金融機関は、業容を縮小するなどして、自らがシステミック・リスクを引き起こさない存在であることを立証する必要があるでしょう。ただし、「システミック・リスクを引き起こす可能性のある金融機関」を認定する客観的な基準を設定するのは容易ではありません。また、銀行のみを対象にしていてよいのかという問題もあります。将来、いかなるビジネス・モデルが金融システムの不安定要素となってくるかを事前に予想することはできません。したがって、監督当局は、金融業の発展に合わせて、「システミック・リスクを引き起こす可能性のある金融機関」の定義を絶えず見直していく必要があります。
保険のプライシングの問題は、残された課題といえます。公的機関が関与して保険を提供する以上、その負担は国民に帰属します。もちろん、国民が効率的な金融システムから恩恵を受けている以上、それ相応のコストを負担するのがフェアーです。この場合、保険のプライシングの適切性を国民に納得してもらうことが重要な課題となります。
保険料の決定の仕方には工夫が必要です。単純な例としては、金融機関のシステミック・リスクを金融機関の総資産額を基準に測り、それに応じて保険料を決定する仕組みが考えられますが、この場合、保険に加入するかしないか、ちょうど境目の金融機関は、保険に加入しないで済むように、資産規模を小さめに保とうとするかもしれません。こうした金融機関が参加するように保険料を低めに設定すると今度はシステミック・リスクの大きな金融機関が更にリスクをテイクする誘因を抑えるのには保険料が低過ぎるという問題が生じます。詳しくは述べませんが、こうした問題は、規模に応じて累進的な保険料を考えることによって、解決することができるはずです。
政府が保険に関与する以上、このプログラムが、政府による「救済保険」であるかのような印象を与えることは避けられないでしょう。この場合、金融機関が新たなモラルハザードを引き起こす可能性があります。モラルハザードの抑制は、公的機関の関与する資本保険の最大の課題といっても過言ではありません。したがって、公的機関の関与する資本保険を導入したからといって、加入金融機関に対する監督の重要性が軽減されることにはなりません。
また、金融システムの安定性に関する情報を、システムに対する不安感の増幅を避けつつ、いかに正確に市場関係者や国民に伝えていくかという点は、この保険プログラムが実現したとしても、その重要性を失うことはありません。保険プログラムの内容が複雑になるほど、一般投資家のfear(恐れ)やパニック心理を封じ込める効果は減殺されるでしょう。仮に、保険に未加入の金融機関が、次々と金融危機の中で破綻していくとした場合、このような中でコンフィデンスを維持していくことは可能でしょうか。この点については、誰もテストしたことがありませんし、誰も自信を持って予想することはできないでしょう
- 16Rochet, J. C. (2008), "Comments on 'Rethinking Capital Regulation' by A. Kashyap, R. Rajan and J. Stein," prepared for Federal Reserve Bank of Kansas City symposium on "Maintaining Stability in a Changing Financial System," Jackson Hole, Wyoming, August 21-23, 2008.
- 17Nishimura, K. G. (2009), "," Remarks at the Panel Session "Responding to the Financial Crises: Lessons Learned" at the 45th Annual Conference on Bank Structure and Competition sponsored by the Federal Reserve Bank of Chicago on May 8, 2009.
(3)その他の議論
最近では、これらのスキーム以外にも、金融機関が危機的状況に至ったときに、いかに資本増強を可能にさせるか、様々な提案がなされ、それらを叩き台に、それをどのようにマクロ・システミック・リスクに対する対処に使ったらよいか、盛んに議論が行われています。以下、そうした議論のいくつかを取り上げて紹介します。
1つ目は、Catastrophe Bondと呼ばれる債券です。一般には、キャット・ボンドと略されています。この債券の発行者は、一定の条件が満たされると、投資家への元本償還義務がなくなります。銀行は、巨額損失を被ったときには元本の償還を免除されるという内容の債券を投資家に売ることによって、実際に損失が生じても、自己資本の水準を維持することができます。例えば、不良債権を抱えている場合には、大規模に債権放棄を行うことによって、自己資本をそのままに、資産と負債の両方を同時にダウンサイジングすることができます。
これとよく似た商品に、Reverse Convertible Debenturesがあります18。これは、一定の条件が満たされると、自動的に株式に転換される債券のことです。会計上の扱いは別にして、これはキャット・ボンドとかなり似たものであることがお分かりでしょう。銀行は、巨額損失を被ったとき、株式に転換される債券を投資家に売ることによって、実際に危機が起こったとき、自動的に資本を増強することができます。
最後に紹介するのは、"Margin Call on Shareholders"と言える契約です19。これは、発行者が、一定の条件が生じたときに、既にその株式を所有している投資家に追加で株式を購入させることができるという契約です。例えば、この契約の付いた株式を発行しておけば、銀行は巨額損失を被ったとき、既存の株主に新株を買い取らせ、市場から資本を調達する必要性を減ずることができます。
これらの金融商品は、目的に応じて、トリガーを設定することが可能です。例えば、個別の金融機関の健全性を目的とするならば、トリガーを個別金融機関の損失額とすればよいでしょう。また、システミック・リスクの防止を目的とするならば、システムに加入している金融機関の損失額の合計をトリガーとすることができます。この場合、一斉に契約の履行が行われるように、トリガーの内容を統一する必要があるでしょう。
以上、金融システムのセーフティ・ネットを構成しうる様々な形の金融商品の提案を見てきました。システミック・リスクを引き起こす全ての金融機関が、これらの金融商品を保有するようにするためには、何らかの工夫が必要です。強制的な購入も1つの方法でしょうし、また金融機関が自ら進んで、これらの金融商品を買うようなインセンティブを与えることも考えなければならないでしょう。例えば、これらの商品を自己資本に算入できるようにするのも、有効な方法であると思われます
- 18Flannery, M. J. (2005), "No Pain, No Gain? Effecting Market Discipline via 'Reverse Convertible Debentures'," Chapter 5 of Capital Adequacy beyond Basel: Banking, Securities, and Insurance, edited by Hal S. Scott, Oxford University Press, 2005.
- 19Hart, O., and L. Zingales (2009), "To Regulate Finance, Try the Market," in http://experts.foreignpolicy.com/posts/2009/03/30/to_regulate_finance_try_the_market.
7.おわりに
現在、欧州を中心に、銀行規制を強化しようという主張が勢いを増しています。こうした主張は、規制が十分強ければ、今回のような世界的金融危機は発生しなかったはずであるという考え方に基づいています。しかし、規制を強化すれば、それだけで将来の金融危機が防げるのでしょうか。この点について、誰も証明を与えたわけではありませんし、そもそも、学界を含めて、十分な議論が行われたわけでもありません。昨今の銀行規制を取り巻く議論の多くは、危機の再発を防ぐためには、規制の強化が必要であるという前提を批判的に検討することなく受け入れているとの印象が否めません。
また、規制を強化することによる副作用についても、慎重な議論を行うべきでしょう。この点について、政府の介入と経済効率という経済学の原点に立ち返って考えてみると、次の2つのトレードオフがとりわけ重要であると思われます。第1に、金融仲介機能の向上と金融システムの安定性の関係です。規制を強化すれば、金融システムの安定性が高まるかもしれません。しかし、他方、政府の介入は経済効率を低下させる可能性があります。金融業では、非効率さは、金融仲介機能の低下という形で現れてきます。こうした問題は、公共経済学の問題として捉えることができますし、公共経済学のツールを用いて、定性・定量という2つの観点から、費用・便益分析を行うことが必要でしょう。こうした分析を様々な規制の候補に適用して、はじめて、経済効率と政府による規制・介入のベスト・バランスに辿り着くことができると考えられます。
第2に、金融業のイノベーションと金融システム安定性の間のトレードオフを挙げることができます。金融システム不安が顕現化すると、ナロー・バンキング論などに見られるように、金融機関が扱える業務を限定しようという議論が必ず行われます。しかし、こうした議論には、金融業におけるイノベーションという観点が欠落しているように思われてなりません。イノベーションを通じて、経済社会のダイナミックな変化に柔軟に対応することなしに、金融業の付加価値を高めていくことは難しいのではないでしょうか。
そこで、システムの安定性を保ちながら、イノベーションを促進するには、どのような方策があり得るかという点を検討する必要があります。その際、イノベーションには、企業の整理・淘汰によって実現されるものと同一の企業の中で実現されるものという2つの形態があるという点に注意が必要です。わが国では、老舗と呼ばれる企業が多数存在している事実からも分かるとおり、これまで、主に後者の意味でのイノベーションが繰り返されてきたと考えられます。金融業も例外ではなく、イノベーションは主に銀行の中で起こってきたと考えられます。したがって、金融業におけるイノベーションの促進は、組織を環境の変化に合わせて、いかにスクラップ・アンド・ビルドさせるかという問題として捉えることができます。
今回の世界的な金融危機は、金融機関のリスク管理と監督当局による銀行規制に大きな問題を提起しました。これまでにお話しましたように、こうした問題について、現在盛んな議論が進行しています。わが国は、1990年代初頭に資産バブルの崩壊に直面し、その後長きにわたって金融・経済の停滞を経験しました。わが国には、こうした経験を踏まえて、現実的な議論をすることができるというアドバンテージがあります。今後のわが国学界からの一層の貢献に期待し、今回の講演の結びの言葉とさせて頂きたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
以上